プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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フェイスブックを運営している将丸から、トランペッターの近藤(等則)さんの代理人の方から投稿があり、近藤さんがぼくと連絡をとりたがっているそうです、とメールがきた。
このメールには心底ビックリした。
というのも、前日、錦糸町にいて、ひさしぶりに会った女性との会話で共通の友人の近藤さんについて話していたからだ。まだ、アムスにいるのかな、と。ふたりとも彼の近況は知らなかった。
そんなことがあった翌日のメールだったので、そのシンクロニシティーには魂消たのなんのって、笑ってしまった。
で、教えられた近藤さんの連絡先にメールをすると、すぐ近況と用件が飛んできた。
それによればーー18年暮らしたアムスから自宅とスタジオのある登戸に帰ってきました、ずっと進めていたプロジェクト「地球を吹く」日本篇のドキュメンタリー映画が完成し近々青山CAYでライブ&試写会をやるので、森永氏には是非きてほしいという知らせだった。あいにくその日は予定がはいっていて、不可を伝えると、「残念、では近々いっぱいやりましょう」と返信がきた。願ってもないことだ。
近藤さんとのつきあいはもうかれこれ30年近くになる。西麻布にあった拙宅に近藤さんが遊びにきたこともあり、そのとき薄暮の明かりもつけない居間で昭和歌謡とジャズのコラボについて語り合い、陽水のアルバムをいっしょに聴いた。ドラマーの山木さんを近藤さんも陽水もレコーディングやコンサートで起用していて、ふたりの感性に共通する何かを感じていた。
近藤さんは70年代から80年代にかけて、ニューヨークに住み活動し、ハービー・ハンコックの革命的アルバム『フューチャー・ショック』に参加を要請された、もっとも先鋭的な日本人アーティストだった。独特の奏法は「お前は、そのままのスタイルで死ぬまで通せ」とマイルス・デイビスからも高い評価をうけていた。
出会った頃から共通の友人も多く、どこか気質も合い、はじめから親密感はあった。人柄以上に何よりも脱業界、反時流の、その一貫した挑戦的な創作姿勢に共感をおぼえた。
DJクラッシュとアルバムを制作してるとき、近藤さんはクラッシュとぼくらのアジトだったバー&アトリエにやって来た。ぼくはそのころ「記憶」をテーマにデジタル・カメラで撮りためた旅の画像を手作業でVHSテープに編集し早送りにして再生するという実験に没頭していた。それを近藤さんとクラッシュに見てもらうと、自分たちも記憶をテーマにアルバムをいま制作していると、ふたりは驚いていた。
そういうシンクロニシティーがよく起こった。
ぼくが主催者になってライブをしたこともあるが、はじめての仕事はマウイ島ロケだった。アヴァンギャルドな楽曲のPVでもつくるように、近藤さんを主役に「惑星マウイ/オデュッセイ」を制作した。
写真家の武井哲史は酔狂にもNASAが開発した月面撮影用のカメラ=ハッセルブラッドMKー70を借りてきた。地球でも天地の彼方まで光景が鮮明に映る。それでマクロの中のミクロ、ハレアカラの山頂に点となって立つ近藤さんのポートレイトを撮った。人物が世界最小サイズのポートレイトだ!
『BRUTUS』の島特集の仕事だったが旅情報など何もない。すべては金管的吟遊詩人である近藤さんの想像の世界。過去も現在も未来も、時間軸はねじれている。ようはシュールリアリズムだ。『2001年宇宙の旅』のスターゲート・トリップ後の宇宙博士のように瞬時に老人となった近藤さんが最後に登場する。
たぶん、80年代中頃、日本がバブルに浮かれていた浮薄の時代、消費的情報を重視しはじめた雑誌文化に対し、雑誌は「夢」をつくり、そのファンタジーを与えるメディアだと、自分なりに若気で思うところがあり、近藤さんや武井さんをバートナーに創作したのだろう。
撮影で島内を移動する間、近藤さんは場所場所でインスピレーションをえて、ぼくらだけを観客に即興演奏してくれた。太平洋を望む丘の上にあったリンドバーグの墓碑の前でも村の祭りでも吹いた。旅そのものが異次元にあった。
ラハイナでは、『アルタード・ステイツ』にでてきたフローティング・タンクにはいった。ぼくが先にはいり、近藤さんはあと。近藤さんは開口一番「ものすごい雑念が水中に残ってたぞ」と、ご立腹だった。そのトリップはうまくいかなかった。あれは、映画の「つくり」ですよ。か、ペヨーテじゃなきゃ、か。
しかし、この旅の一番の奇怪な体験は、バット・トリップだった。
世に言われる「地上最後の楽園」の山中に旅客機の巨大なタイヤなどが散乱する航空系産業系廃棄物集積所を発見したときに、あまりの衝撃に近藤さんと「旅客機が墜落したみたいなとこだな」と感想が一致し、その翌日帰国するという日、ホテルでチェックアウトしてるとき、地元ラジオ局から突然緊迫した声で日本の旅客機が山中に墜落し航空史上最大の惨事になっているとニュースが流れ、思わず近藤さんと顔を見合わせた。
帰国し、その群馬山中のJAL墜落事故のテレビに見た現場は、マウイで目撃したのとまったく同じ光景だった。
「見たか?」と近藤さんから電話がきて、答えた。「逆デジャヴですね」
近藤さんは日本史に名をのこす海賊の真の子孫だが、それだけでなく時空を自在に操作できるトランスフォーマーのような人物だと、ぼくは、いまもここに最初に書いたシンクロ現象を経験し、思いを新たにした。