プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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テーマであれ表現スタイルであれ、ぼくは少しでも独自のものを追求しようと試みていた。
時流には何か抵抗を覚え、まだ誰も発想しない事や誰も着目しない土地、人、物を求めていた。
なんでそんなことしていたのか自分ではわからなかったが、でもいま振り返ってみれば、ぼくらが人生で最も多感な十代のころに起因しているかもしれない。
ぼくらはそれまでにないすべてが新しい文化の嵐のなかにいたのだった。
そのひとつはサイケデリック・カルチャーだった。
サイケなロック、アート、ファッション。そのすべては意識や感覚の内的革命だった。
それによりサブ・カルチャーが主流となっていく時代を体験した。
そこに見る世界はそれまで目にしたことのないニュー・ワールドだった。
つまり無意識の内に未知なる世界を求める素養が形成されていたのだろう。
でもここで書こうとしてるのはサイケの話しではない。独自のものを追求する、
その精神を仕事に導入するということ----
で、最近また偶然過去の仕事にめぐりあった。
長濱治氏の写真展会場で石川次郎氏に再会した話しをこのプロフィールで書いた。そのとき次郎さんから大先輩のエディターであったテラさんこと故・寺崎央氏のアーカイブス・ブックが昨年出版されたことを教えられた。
「読んだ?」
「知りませんでした」
「じゃ送ってあげるよ」
その本が届いた。中にふたつ自分に関するものが掲載されていた。
ひとつは22歳のときにスーパーマンの衣装を着たぼくが全裸の当時のガール・フレンドと写っている写真だった。
雑誌は『平凡パンチ』、1972年だ。この「スーパーマンよ、お前は誰だ!」というグラビア特集の構成・文がテラさんで編集が次郎さんだったと知る。このとき先輩たちと接触していたのか。
もうひとつは『ガリバー』の韓国取材だった。これはぼくが企画し担当編集をしたとんでもない紀行だった。
事のはじまりは、なんで読んだかか忘れたが、かつて太古の時代、大陸と日本列島は地続きで日本海は淡水の巨大湖だった。
それが地殻変動により分断し湖は海になった。という学説を読み突然ある推測が閃いた。それは、
【 もし、そうならば湖に棲息していた太古の淡水魚は海水から逃れて川へ移動したのではないか?】
閃きに興奮した。
すぐに近所の焼肉屋に飛んで行って友人で釣り師のパクさんに自説を伝え「そんな魚、いますか?」と訊いた。
パクさんは「もしかしたら、ソガリが森永さんの言うその太古の淡水魚かもしれません」と期待に火をつけた。
「ソガリは韓国固有の魚で陸にあげても何時間も生きてる強靭な生命力を宿してるんです」
「それだ! パクさん、それ釣りに行けますか?」
「行きましょう!」
完全に発火していた。
というわけで何の確証もなく韓国に釣りに行く企画が誕生した。
釣るとなったらフライかルアー。しかしぼくはスポーツ・フィッシングはやったことがない。誰かプロの釣り師に任せるしかない。
パクさんは言う。韓国には民間の釣り協会があり、その長老にガイドと釣りを依頼する。
ぼくは提案する。日本からは 先輩のテラさんに依頼する。
後日テラさんに話すと「とんでもねえ企画だな。いいよ、行こう」と受けてくれた。
その釣り紀行はテラさんが文章を書いた。
改めて読むとテラさんらしい軽妙洒脱のフレーバーは活かされているものの韓国が歴史上抱え込んだ様々な問題に鋭く切り込む筆致に真剣を感じる。つまりテラさんっぽくないのだった。
テラさんの内面にたぎる気骨をはじめて感じた。
その釣り紀行は38度線を突破し民間人が入域することなど許されない非武装地帯まで進入した。
まさに命がけの取材だった。
護衛に元コマンドが随行しゲリラの侵攻を思わせた。
特集となって雑誌に発表したときは、かなり誌面構成に凝ったが、そのバック・ナンバーは手元にない。次郎さんの元にはあるようだった。近いうちに次郎さんのオフィスを訪ね写真に撮らせてもらおうと思う。
以下はテラさんのアーカイブス・ブック『史上最強の助っ人エディター』に掲載されていたものだ。
もうテラさんがいないと想うと、真夏の夜に胸が痛む。