森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

山崎さんの葬儀で日頃めったに会うことのない多くの知人に再会した。

供花に見る名前は、CHAR、布袋寅泰、小泉今日子、横山剣、THE MODS、ソフィア、怒髪天、織田哲郎、等ミュージシャンが多い。

通夜のとき、大方の参列者の焼香が終ったころ、立花ハジメが現われた。

頭は坊主にし、黒いコートを着ていた。

会場に入ってくると、山ちゃんの死去が信じられないといったような表情で、遺影を見て、焼香し、関係者席にバウンティーハンターのヒカル君を認めると、立花はヒカル君の隣りに座った。

立花と会うのは、もうどのぐらいぶりだろう。

あれは何年前か、六本木のクラブで開催されたレイバン主催のイベントに立花が屋敷豪太らとステージに立った。何年だろう。7、8年前のことか。

立花と初めて会ったのは1975年だ。

彼はそのころグラフィックデザイナーとして独り立ちした。

それ以前は、中山泰、真鍋立彦、奥村靫正のWORKSHOP “MU” のアシスタントだった。

75年に、ぼくが嘱託のエディターとして働いていた出版社・八曜社に、後藤由多加(当時はユイ音楽工房代表)と早稲田の先輩・後輩の縁でいっしょに現れ、立花はデザインの仕事をすることになった。

当時、立花は仕事をはじめたばかりで、まだ技術的には未熟だったが、センスは抜群だった。

プラスチックスを結成する前だ。

ぼくが編集で、立花がADで、何冊も単行本を制作した。

一番の代表作は、吉田豪が異色本史上第2位と評する松方弘樹の『きつい一発』だろう。ちなみに1位はガッツ石松の『男・石松のガッツエンターテインメント』だ。3位は石原慎太郎の『スパルタ教育』となっている。

この本は東映の宣伝部から持ち込まれた企画で、山城新吾の『白馬童子よ何処へ行く』と、2冊同時発売した。

そのために、カバーは同じフォーマットにし、吉田カツがまったく同じアングルでふたりの肖像画を描いた。

ADは共に立花である。

いま手元になく、中古本マーケットで入手しようにも常時1万円ほどプレミアム商品となっていて手が出ない。

中のグラビアも、立花のセンスによって相当ユニークなデザインになっているはずだ。

中の写真は共に三浦憲治だ。

ぼくも立花も三浦もまだ20代半ばと若く、完全に駆け出しだが、自分の感覚を制作にぶつける姿勢だけは人一倍だった。

絵の吉田カツはぼくらより10歳年上の先輩だったが、この本を制作した75年は、まだ無名に等しかった。

もうすでに60年代に熱くたぎったアンダーグラウンド・カルチャーは勢いを失くし、オイル・ショックによる状況的低調も加え、クリエーターは保守化へと向かっていたが、洗練や完成度に向かうより、アンチをつらぬきたいとぼくも立花も三浦も想っていたのだろう。

立花は翌年、パンクに触発されプラスチックスを結成した。三浦もロンドンでローリングストーンズの公演を体験し、ロック・フォトグラファーへの道を歩みはじめ、既にキャロルの日比谷野音でのラスト・ライブのアルバム・ジャケットを飾る写真を撮っていた。

ぼくは76年には、フォーライフ・レコード発行の音楽雑誌の編集長に就任し、田名網敬一をADに迎え、音楽誌としては余りに斬新な編集へと突き進んでゆく。

それも立花、三浦がパートナーだった。


山崎氏の葬儀に、三浦はライブの撮影が入っていて出席できなかったが、もし来ていたら、3人の再会はそれなりに感慨深いものになったろう。

ぼくらは3人共、山崎氏をリスペクトしていた。

写真2

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