プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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戦友
たしかに、三浦が言うように、僕たちは生き残ってる「戦友」なのかも知れない。
太平洋戦争時、スマトラに通信兵として出征した父親は戦友会に出席するのを楽しみに老後を生きていたが、年老いて次々と戦友がなくなっていくうちに老衰がひどくなった。
1970年、僕は広告制作会社の【AD CENTER】に嘱託で雇われていた。
その関係で多くのカメラマンと仕事をしていたが、よく撮影依頼していたのは、いまも現役バリバリの長さんこと長濱治だった。
長さんの助手についていたひとりが三浦憲治だった。
他に若松プロの助監督にして役者のガイラもいて、北野武もガイラとの関係で長さんの事務所に出入りしていた。
まだみんな20歳そこそこであった。
三浦が独立したころ、僕も八曜社というちいさな独立系出版社で編集の仕事を本格的にはじめ、ふたり何か夢を追うような同志的関係がはじまった。
松方弘樹や山城新伍、林家木久蔵の単行本のための撮影を依頼した。
それから僕が音楽誌『FOLIFE MAGAZINE』の編集長となってからは主にユーミン、矢沢永吉をはじめとするミュージシャンの撮影を依頼、それが70年代。
70年代の終わり、僕がフリーになってからは、三浦との狂熱的なコラボがはじまり、『月刊明星』『POPEYE』『BRUTUS』『ターザン』『ガリバー』『翼の王国』『キング』、、で話題作も作った。
井上陽水や加藤和彦の単行本も三浦に撮影依頼をした。
クリームソーダの仕事も、ブラックキャッツにはじまり、一冊分丸一日で撮影した写真集『ROCK'A BEAT CAFE』など、どれだけやったか。
ソロ初の布袋寅泰のツアーパンフも。
拙者『ドロップアウトのえらいひと』にも、三浦のことを書いた。
各国に取材で行ったが、中国でも、インドネシアでも、韓国でも、スパイ容疑で逮捕寸前までいったこともあった。
ギリギリのところで仕事していたが、ふたり、悪運が強いのか、危機を逃れた。
それもあって、彼も運営委員のひとりになっている六本木のギャラリー【六本木スペースビリオン】での写真展『MIURA MIAM 2016』のオープニングパーティで、久しぶりに会ったとき、三浦はそこにいた関係者に僕のことを「戦友」と紹介したのだろう。
年が同じで、お互い、嗜好が様々な点で似通い、一緒に旅をしていても気を使うこともなくマイペースでいられる。
対立することは一度もなかった。
金でもめたこともない。
見栄張り合うことも、泣きつくこともなく、、。
三浦の公私にわたり、まったく偉ぶるところのない、その自然体は編集者やアーティストたちに愛され、60代になっても一線で活躍している。
業界で長らく仕事をしていれば、愚痴のひとつもでるが、三浦から愚痴を聞いたことがない。
人の悪口も言わない。
深刻な顔を見たこともない。
三浦は、広島出身、被曝した母から生まれた。
いまもカメラが三浦の命に活力を与えている。
三浦の写真展より。なんて、クールな写真か。