プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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クリソ50th
そう誰もそんなことは考えなかった、山崎みたいには、誰も。
スナックをロックショップと言い換え、新宿の怪人二十面相を日本で最初に「行列のできるスナック」にした。それが、オリジネーターのはじまりだった。
新宿から原宿にー
70年代後半には、1950年代を50's/フィフティースと呼び、原宿で初めてロックンロールを流す50sのスナックとロンドンとサンフランシスコから輸入した50sの古着屋をオープン。
古民家を改造するショップの先駆となった。
古着からオリジナルに切り替えたクリームソーダは日本初のドクロ・ブランドとなった。ジョン・レノンもやってきた。
それは、教育委員会の指導により、中学高校で不買運動に発展したが、ほぼ全国の若者が角ドクロの商品を購入、万引きした。
来日したロック・ミュージシャンたちも、ガレージパラダイス東京に買いにやってきた。ショップのレジが鳴り止まない、札束を数える店員の指紋がなくなったいう爆発的ヒットのブランドとなった。ここにも行列ができた。
ガレージでは、その後ブームとなるミッド・センチュリーの中古家具を大量にロスから輸入した。
このころから、インディーズの出版もはじめ、50sカルチャーをつたえていく一方で、店員たちによるロカビリーバンドのプラックキャッツをプロデュース、アメリカ西海岸ツアーまで行い、海外でも熱狂を呼んだ。ティモシー・リアリーに絶賛され、ザ・クラッシュがファン・クラブに会費を払って入会した。ジョニー・サンダースもファンになった。ハリウッド映画の『ストリート・オブ・ファイヤー』に出演依頼もあった。
彼らが出演したコカコーラのTVCFはカンヌでグランプリを獲った。アメリカ最大のネットワークTVにも出演した。
屋上にプールのある自邸でもあったピンクドラゴンのオープンと同時に、山崎は、渋谷と原宿を結ぶ路地をキャット・ストリートと名付け、裏原のはじまりにした。
伝記本『原宿ゴールドラッシュ』刊行直後、黒澤明のプロダクションから全世界配給の映画化の話がきた。他にも映画化、テレビドラマ化、漫画化の企画が殺到したが、結局、東映の正月作品となった。
『原宿ゴールドラッシュ』はストリート・カルチャーのバイブルとなったが、内容は怪人二十面相からの生涯の相棒、伴晋作とイギリス人のモデルのビビアンとの友情と愛の物語だった。
世はバブル真っ盛りのときだったが、金より大切なものがあることを山崎は伝記本を通してメッセージした。
ロカビリーバンドはマジックに進化し、低予算自主制作のビデオ映画はNO1ヒットを記録し、マジックはROCK'A'BEATという新たなロカビリー・シーンを作った。
すでにこのときまでに、山崎は、新宿のスナックからスタートし、原宿を舞台に古着屋、ファッションのメーカー&ショップ、ロカビリーバンド、インディーズ出版、エリック・コットとのコラボを含む自主映像制作、宮大工が建築した料亭風和食屋、アメリカン・タトゥーのカリスマ伝道師エド・ハリーとのコラボ、本邦初トロピカル・デコの自社ビル建設、ポップなアートで飾ったギャラリーのようなレストラン、ダギー・フィールズ、マルカム・ポインターらロンドンのアーティストとのコラボと、すべてに先駆け裏原系のビジネス・モデルを確立していた
。その影響はショップ・ビジネスにとどまらず、ドクロマーク・カルチャー、その後ミッド・センチュリーと呼ばれた50sのリバイバル、コンサート・グッズ・ビジネス、キャットストリートや裏原のブーム、『タイガー&ドラゴン』のようなTVドラマ、何よりも若者たちや秋吉久美子、小泉今日子、アン・ルイス、藤井郁弥、横山剣、HOKTにまで、それは及んだ。
死後、制作された本人のインタビューをメインにした追悼DVD『DOQROがぼくの夢をみる前に』はamazonのドキュメンタリー部門で初登場1位となり、1967年にはじまり、67歳で幕を閉じたロックンロールショーを山崎は鮮やかに完結させた。
そう誰も山崎みたいには生きれない、誰も。
生まれ育った北国の炭鉱町で、山崎は10歳のとき、六軒長屋のとなりの家から流れてきたエルビス・プレスリーのハートブレイクホテルを聴いた、その瞬間、死ぬまでの軌道を設定していた。
森永博志