森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

その写真には、小型ロケットのような鉛筆を脇に抱えた藤田嗣治が、くわえ煙草で映っている。とんでもなくいかれたポーズだ。

他に十人ほどの、一般市民とは思えない華やかな雰囲気の上流的白人男女たち。日本人の男女もいる。右端の探検帽をかぶった大柄の日本人がバロン薩摩こと、薩摩治郎八だ。見るからにモガの日本人女性は薩摩夫人だ。

1920年代のパリで、芸術界のスーパースターとなった稀代の芸術家の、その破天荒さを、この写真は最もよく伝えている。ダリ以前には、やはり藤田がエキセントリックさにおいて頂点にたっていたのだ。

しかし、写真は、謎に包まれていた。なんで藤田は巨大鉛筆を抱えているのか?これはアート・パフォーマンスなのか? 場所は?


それが、渋谷古書センターで買い求めた『藤田嗣治 異邦人の生涯』に、以下の文章を見つけ、判明した。


〈人の意表をつく行動、サービス精神に富んだおふざけ。パリっ子たちは、藤田の頭文字FOUから「フーフー」というあだ名をつけた。「フーフー」とはフランス語で「お調子者」との意味だから、「フーフー」というあだ名をつけた。

パリの寵児・フーフーの姿は多くの写真に残されている。

避暑地として知られるドーヴィルの海岸を歩く藤田は、トランプカード模様の派手な水着を着、手には巨大な鉛筆を抱えている。そばにはシャンソン歌手ミスタンゲットをはじめ若い女性たちが笑いかけている。

アメリカの鉛筆会社が宣伝のためにとパリのスター二人を海岸に招待したのである。〉


という。FOUはアルファベットをいれかえると、UFOじゃないの。フーフーは宇宙人じみている。そんなことはどうでもいい。

ここで書かれている写真のフーフーは水着姿となっているので、別のカットだろう。ぼくが知る写真のフーフーはガウンを着ている。でもフーフーは「巨大な鉛筆」を抱えている。だから、ドーヴィルでの写真だ。宣伝とはいえ、やはり20年代だ、演出がアヴァンギャルドしている。


その写真は二人目の薩摩夫人の利子さんを、彼女が住んでいた徳島まで取材で訪ねて借り受け、1980年8月1日発行『ブルータス』の意欲的特集「人生を悦楽する男たちは みんな不良少年だった」号の表紙を飾った。すでに、バロンは故人だった。


この特集号の目玉は久保田二郎とぼくでつくった。

ぼくが、特集巻頭に載せる不良100カ条を書いた。この100カ条は、いろいろ広告コピーに盗用され、ローベンブロイが全文買い取ってくれ新聞の全面広告にもなった。また、詩人の高橋睦郎さんが「ほめてたぞ」と先輩編集者に言われた。

この100カ条のあとに、ジローさん入魂の人物記がはじまる。

バロン薩摩という、1920年代、30年代パリで200億もの私財を芸術的放蕩で遣い果たした世紀のエピキュリアンの華麗なる姿を、野坂昭如から「昭和最後のエピュキュリアン」と讃えられたジローさんが書いた。

ぼくが担当編集というか、助手になり、関係者への取材に同行、誌面を飾るイメージ写真の撮影を行った。

バロン薩摩はパリでは、多くの芸術家を惜しみなく金銭的に支援し、日本文化を伝えるために私財を遣い日本館を建設、戦時中は命がけでナチと戦うレジスタンスの戦士をかくまった。

戦後、資産を遣い果たし日本に帰ってからは、バロンは浅草六区のダンサーだった秋月ひとみ(結婚後、薩摩利子になる)さんと彼女の故郷の徳島で隠棲し、人知れず亡くなった。


ジローさんと徳島に行き、未亡人の案内で、バロン薩摩の墓参りをした。利子さんが大事に保管していた遺品の中に、バロンとフーフーの写真を見つけた。


これはぼくが31歳のときの仕事で、人物取材をすすめながら墓参りまでした最初だった。もうひとり取材先のシアトルで墓参りした人物がいるが、それはジミ・ヘンだ。そこはジミ・ヘンのステップ・マザーとともに訪ねた。

この特集号が出ると、当時マガジンハウス会長の清水さんが、パリに取材でいた石川(次郎)編集長のもとに、「よく、やった!」と賞賛のメッセージを送ってきた、と聞いた。


しかし、この本稿とは話しは別だが、そのころのメンズ・マガジンに見る広告は、それぞれ独自の世界観が表現されていて、雑誌に色を添えている。いくつかひろって、のせてみた。

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