プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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テルさんと。
うちで二回だけ喧嘩があった。その二回ともテルさんなんだよと、ヒデは言うのだった。
ヒデは北青山に〈ウォーキン〉というジャズ・スナックを1976年に開業し、30年続けた。そこがテルさんをボスとした不良どもの溜まり場であった。
その不良どもの半数は故人となり生き残っている数人の男たちが、テルさんの77歳を祝う会に集った。
会場でヒデから喧嘩の回顧談を聞いた。張本人のテルさんはそばにいて戦国武将のような精悍な顔を笑い崩す。
テルさんとは写真家の関口照生のことだ。
2015年11月にテルさんは77歳になった。
ぼくとは12歳ちがい、同じ寅年だ。
出会いは、1970年代初め、旧名霞町、現西麻布交差点の交番裏にあったテルさんの自宅を友人と訪ねたのが最初だ。その頃は毎日酩酊していた。そんな関係としてつきあいがはじまった。
テルさんの青春時代は16ミリ撮影機を携えて南米を放浪したり、青山墓地に駐車していた車に暮らしていたり、かなり野放だったと聞く。
テルさんは芸術系写真家の故・原 栄三郎を兄弟子とし、原さんは田名網敬一とも親しく、だからテルさんは田名網さんとも活動を共にし、現代アートの立体作品を記録した写真集やスペイン舞踏のカリスマ長嶺やす子の写真集も刊行している。
つまり、テルさんは芸術家気質をそなえた写真家であったが、一方では芸能界コネクションもあり和田アキ子をはじめとする歌手のレコード・ジャケット用の写真や広告も多々撮っていた。
テルさんは青山にユニティーという事務所を開設した。
その事務所がぼくら不良どもの溜まり場となり、まだ若く駆け出しでヒマだったぼくらは遠慮ということも知らず、テルさんの事務所に昼から夜中までたむろし、酒や料理の恩恵にあずかった。
実際、テルさんの料理は冴えていて、そのころ、一般的には「パスタ」などという呼称を知る者はなく、ナポリタンとミートソースの「スパゲッティー」の時代にテルさんは事務所のキッチンでバジリコ・パスタをこしらえてくれた。
そして毎晩みんなでヤムというゲームに興じ、飽きると、街に繰り出した。
「あの頃に、みんなを食わすのに、しょっちゅうカメラを質屋にいれてたんだよ」とテルさんの述懐を聞いたことがあった。
事務所の近くには和田誠さんご贔屓の中華屋の〈フーミン〉があり、よく行った。
納豆チャーハンが名物だった。
ぼくは編集の仕事をはじめた頃で、一流雑誌の仕事はまわってこなかったが、鎌倉書房が創刊した『サン・ジャック』の仕事をテルさんの友人のプロデューサーを介してもらい、すでにぼくが紹介しテルさんとも親しくなっていた久保田二郎のコラムとテルさんの写真で構成する連載ページを企画・編集した。
それがテルさんとの最初の仕事だった。それから雑誌の仕事をしていった。
そのうち、これは自伝にも書いたが、ぼくが小出版社の八曜社の嘱託になり、初めて単行本を編集することになった。それが泉谷シゲルの写真&詩篇『百面相』であった。
カメラマンはテルさんの他に長濱治、長濱さんの助手でその頃めきめき売り出してきた井筒晈治の三人。
ポラロイドのポートレイトをギターの六弦にさしこんだカバー写真はテルさんが撮影している。
『百面相』はぼくの記念すべき処女編集本だ。時、1975年、テルさんは35歳、ぼくは25歳。
残念なことに、その本は手元にない。
しかし、40数年後の77歳の祝賀会でテルさんと雑談するうちに、テルさんは所持し、見せてくれるというので、それを手にするまで、しばし、テルさんのことを綴ってみたくなった。
70年代の終わり、テルさんから「紹介したい人がいる」と連絡がきて、ぼくらの行きつけの六本木〈ドンク〉のバーに行くと、そこにいたのはひとりの少女であった。
彼女が現夫人の竹下景子さん、すでにふたりは婚約していた。
その前後、彼女を撮った衝撃的な作品が男性誌を飾り、またベストセラーとなった写真集も刊行され、テルさんは「時の人」となった。
その後、婚約が発表され、テルさんの周辺は騒然となり、事務所はマスコミに包囲された。テルさんの行く先々にマスコミ陣はついてまわった。
その騒ぎのほとぼりがさめると景子さんの出産までの夫婦のドキュメンタリー・ブック『ハロー・プラス・ワン』が出版され、80万部のベストセラーとなった。
その後も女性タレントの写真集を発表していったが、一方ではテレビのドキュメンタリーのリポーターをつとめるようになった。
それは 辺境専門で北極に三ヶ月も滞在するような過酷な仕事であった。テレビの仕事では世界の辺境を舐め尽くした感があった。
その後、テレビのコメンテーターとしても活躍しはじめた。
大橋巨泉や石坂浩二、北野武たちと共同で伊東にマンションを所有もした。
また、ギタリストのチャーが創業した自主レーベル〈江戸屋〉を積極的にバック・アップもしていた。
活動は多彩であった。
仕事や人生を愉楽する達人となっていった。
ライフ・ワークとして世界中の子供たちの笑顔を撮影していた。
少数民族の生活も撮影していた。
現在もつづけているがミャンマーとの文化的交流もはじめていた。アフリカ諸国へも足を運び、中年になってからの活動は国際的なものになっていった。
プライベートでは関係はつづいていたが、仕事をすることはなかった。
それが、、、
1996年のこと、初めて小笠原に渡ったとき、偶然入ったスーベニア・ショップで手にした小笠原の写真集にテルさんの名前を見た。
テルさんは推薦文を寄せていた。店主が写真家だった。
話を聞くと、テルさんとは親しく、その偶然にふたりとも興奮し、小笠原からテルさんに電話した。
そのとき、まさに閃きのごとく、かつてテルさんが16ミリ・カメラを携えて南米を旅していた話を思い出し、16ミリ・フィルムで小笠原のドキュメンタリーを撮りましょうと突発的に提案していた。
「よし、やろう!」と雄々しい声を聞いた。
その一ヶ月後には資金調達をしテルさんと小笠原へと撮影の旅にでた。
それから数ヶ月ごとに渡航し島々と大洋を船で巡り、大自然の神秘をフィルムにおさめていった。
その映像作品が『EDEN』であった。
関口照生監督作品である。
音楽には布袋寅泰がギターを奏でている。
作品は小笠原返還記念行事として星空の下、野外映画会で上映された。
テルさんと出会ってから30年目の仕事であった。
それからまた長い歳月が流れ、、、
2014年から度々足を運んでいた福島の猪苗代の自然に触れるうちに、ゴッホの眼差しで自然や暮らしの情景、子供たちを撮ったら素晴らしい作品になると閃き、テルさんにその旨を伝えると、15年前のように、瞬時に、
「よし、やろう!」
と野太い声が返ってきた。
野にあって、カメラを手にしたテルさんの動きは野生動物のように俊敏であった。
土地の人たちも、その動きに驚異の眼差しを向けていた。
酒の席では、よく人を爆笑させる。
ドブロクと馬肉を好み、野盗の首領のようである。
強靭な生命力を感じる。
まだ、どのような作品にまとめ上がるのかわからないが、日本の歴史の礎に生きてきた原風景が露わになるのではないだろうか。
あのころ、『百面相』を見たユーミンが「関口さんの写真が一番、自然ね」と感想をもらした。
どんな写真だったのか、いまは、手元にくるときを待っている。
大阪出張から帰ると、『百面相』が届いていた。
ブルースが聴こえてくる鮮烈なイメージを創出していた。
最新の写真集。これもテルさんらしい仕事だ。
1998年、小笠原返還30周年記念事業で、関口照生監督『EDEN』が野外劇場で上映された。上映前にテルさんと企画した僕と撮影秘話をテーマにトークショーを行った。写真プリントは、テルさんの秘書のマサミさんが、今年、一緒に江戸をテーマに仕事をテルさんとしたときに、「こんな写真がでてきた」とくれたものだ。太平洋の絶海の孤島、満天の星空の下での、南風に吹かれてのトークだった。20年前の仕事だ。