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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

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【立川直樹『ザ・ライナーノーツ』まえがき】

音宇宙に記された魂の伝記


どんな音楽も、それを享受する心は個々のものであるべきで、いつの時代にも、優れた音楽は聴く者を未知なる世界への旅へと誘い、愛への憧れを胸にともし、夢見る力を心に授け、不条理に対する怒りを爆発させ、亡き者への追悼の想いを深める。

でないと、音楽は戦意高揚の道具に使われたり、ポイ捨て当たり前の商業活動のネタにされてしまう。そこにはアーティストへの敬意など微塵もない。

衣食住において独自のスタイルを有し、美と結びついたところでの生活思想を確立している者が、音楽、文学、映画、絵画を鑑賞するとき、その精神は輝きを帯びる。直観力のはたらきが、至福の域へと鑑賞者を到達させる。

直観とは、「他人が何と言おうとも、自分がいいと思うことだ」と言ったのは、小林秀雄だが、いや、小林と対談した岡潔だったか、確かに、直観とはそれに尽きる。

小林秀雄がその直観力を駆使して、モーツァルトやゴッホを論じたように、立川直樹は博覧強記の知識を交え、ピンク・フロイドを、デヴッド・ボウイを論じる。アーティストの創作活動時の意識の深奥に潜む葛藤や核心的ビジョンを、鮮やかな手さばきでつかみとってみせる。全身全霊をもってアルバムに耳を傾けることによって、アーティストでさえ気づいてない真理を発見する。

すべては筆跡未踏といってもいいレベルにある。

ライナーノーツは、本来は作品に対する解説にとどまり、内容はレコーディング・データーの羅列か、主観に溺れた論評や批評のようなものだが、立川直樹はここに収録されているJAPANの『TIN DRUM』のレビューにも書いているように「凄い」と言うしかない、さらに「文章で音楽を語ることに対するある種の焦燥感すら抱かされる羽目になったのである」と正直に告白している作品群を、至上の悦びとともに「音宇宙の中を迷い子になってさまよう」(ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のレビューより)トリップの記録によって語っていく。それは航海記のようだ。

この「音宇宙」という言葉は、本書に何度も使われているが、全50点のアルバム中ブリティッシュ・ロックが4分3を占め、そのほとんどが1970年代に制作されていることが示すように、そこに立川直樹の「音宇宙」があり、そこをさまようことは『スタートレック』さえを想わせる。そう、一枚のアルバムがそうであるだけでなく、取り上げたアルバムの一枚一枚が「音宇宙」に散在する未知なる惑星なのだ。

その「音宇宙」は一様にスィンギング・ロンドンと呼ばれた60年代のブリティッシュ・ロックのオプティティシズムとは一線を画している。

というのも、1970年代の英国は「鉄鋼不況やオイルショックなどが続き、未曾有の不況の時代を迎えていた。失業者は増え続け、都市部でも週に3日の停電が当たり前となり、大英帝国の歴史において、最も貧しく、暗い時代だった」(森達也『ぼくの歌、みんなの歌』より)という時代にブリティッシュ・ロックは民衆の魂を救済する「音宇宙」となって創造力を高めていった。

立川直樹は1970年にはじめてのライナーノーツを書いた。アルバムは本書にも収録されている英国のバンドTHE FLOCK『DINOSAUR SWANPS』である。やがて英国に訪れる暗黒の時代のはじまりに作られたこの作品を立川直樹は「自由」と「未来」という言葉を使って語る。

「彼等は1つのパターンを守らずにいろいろなことをやっている。とても自由な形で演奏している。そして、もっと自由になりたいと願っている。これらが本当に忘れてはならないニュー・ロックの精神なのではないだろうか」と、讃えたレビューは、以下の高らかな宣言でしめくくられている。

「まだロックには限りない未来がひらけているといえよう。ロックは決して保守的であってはならない」

立川直樹が21歳の時に書いたこのレビューは、その後の1970年代以降のブリティッシュ・ロックの、社会に対する強い影響力を孕み芸術性をも追求しながらも驚異的セールスさえ獲得していく歴史を予言すると同時に、立川直樹が若い自分自身の未来にも向けた、魂を鼓舞させるメッセージでもあったのではないか。

1970年にスタートしたライティングは「刺激的なレコードを聞きたいという渇望」(ニック・メイスン『空想感覚』のライナーノーツより)のもとに継続し、およそ半世紀もの歳月が経ち、2018年、70歳を直前に、このアーカイブ・ブックを刊行することになった。

この一冊は立川直樹がその人生において、何を一番信じ、愛していたかを表明する魂の伝記だ。

そして、立川直樹は、この本の最後を飾るレビューを、ブリティッシュ・ロックではなく、ジャニス・ジョプリンの『チープ・スリル』とボブ・ディランの『欲望』を選び、本書のために書き下ろしている。

まるで、初心にかえるがごとく。

決して癒えることのない渇望のおもむくままに。

「音宇宙」へのさらなる果てない旅が、ここからはじまる。


もし私が神であったら、青春を人生の最後に置いたであろうーーアナトール・フランス

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【杉山恒太郎と私 】

全部が遊びで、生活の全てにおいてほどよい趣味がある人


出会いは、たしか1975年。当時、僕が八曜社という出版社で働いていて、その社長の渡辺浩成さんが、コウちゃんの従兄弟だったんです。渡辺さんは集英社の当時人気の音楽誌『guts』の名物編集長だった人です。そして独立して起こした八曜社でミュージシャンのアーティストブックを制作していて、僕はそこで仕事していたんです。

八曜社は渋谷区南平台にあるマンションの一室に編集部を構えていて、その向かい側にあったアパレルのアトリエにコウちゃんがよく来ていました。渡辺さんとコウちゃんは親戚なので、渡辺さんがそこで紹介してくれました。彼は立教大学を卒業後、フランス留学から帰ってきて、まだ何もしていなかった時期だったはず。コウちゃんは会ったときから、飄々としていました。それから長いつきあいが始まったんですけど、僕らは「最近忙しい?」「今、何してんの?」とか、そんな野暮な会話は一度もしたことがない。


#会社の人脈ではない街場の人脈に広がりがある


その後、コウちゃんが電通に入社して、青山にあった伝説的なバー「K’S BAR」で毎晩のように集まっていたんです。その頃、僕が角川書店で『月刊小説王』を編集することになり、巻頭に彼の詩の連載を始めたんです。そもそも『月刊小説王』は、小説を一度も書いたことがない素人に小説を書かせるという方針。たぶん彼も一度も小説や詩を書いたことはなかったと思うけれど、彼とバーで毎晩のように話しているうちに話題に文学や小説などがよく出てきて、ならば詩を書いてもらいたいとお願いしたんです。『月刊小説王』は、戦前のロマンティシズムを意識していたので、コウちゃんの詩を巻頭に持ってくることで昭和レトロな感じの雑誌コンセプトを表現することができたように思います。『月刊小説王』が彼の作家デビューかもしれません。 また僕が編集した「スネークマンショー」のカセットブック『SNEAKMAN SHOW』(角川書店)に彼のテキストを大きく起用したんです。「スネークマンショー」のコントは、ブラックでシュールなので、イマジネーティヴな雰囲気が大切だった。“本当にそれはあったことなのか?”“夢の中のことなのか?”と聴いている人に感じてもらうような幻想的で物語性が必要だったので、どこか浮世離れしているコウちゃんがぴったりでした。

もう一つ、コウちゃんに写真家の亡き植田正治さんを紹介したことがあります。『月刊小説王』の企画で、鳥取の砂丘で植田正治さんに絵物語作家の亡き山川惣治さんを撮ってもらい、それにコウちゃんに詩を寄せてもらうというスペシャルな企画。その後、東京ステーションギャラリーで植田正治さんの写真展をやった時に、僕と植田さんとコウちゃんの三人でトークをやったことも思い出深いです。

 

つい先日もコウちゃんとうなぎを食べる機会があって、そこでいい話を聞きました。「ピッカピカの一年生」の前に、小学館がスポンサーのラジオ番組をつくっていたそう。パーソナリティーは、ムッシュかまやつさん。『GORO』という雑誌の宣伝で、毎回コウちゃんがコピーを書いていたんだけど、だんだん面倒くさくなってきたと。そこで楽をしようと考えたのが、雑誌の車内吊りのコピーをかまやつさんに全部歌わせる、というもの。今でいうラップですよね。 そしたらそれがすごくウケて、小学館の人も「面白い」と、その後に発展して「ピッカピカの一年生」になった。だから、楽しようと思ってやったことが、ブレークのきっかけになったんです。コウちゃんらしいな、と思いました。

 

彼は電通にいながらサブカルチャーのディープな部分にも興味を持っていた人です。電通社員でいながら、会社の人脈ではない街場の人脈に広がりがある人で、それは今でも続いています。


#広告にアートを紛れ込ませるのが上手


 

僕の主義として、広告はやらないんです。僕は20歳のときにアド・センターにいて広告の制作をしていたわけです。しかし、商品が好きでもないのに、なんで良いと言わなきゃいけないのかと思うようになって。またCMディレクターの杉山登志さんの自殺と遺書もきっかけになったかもしれない。スポンサーのところにプレゼンのカンプ書いて持って行って、それでOKが出るというプロセスが、まだ若かったから面倒くさいわけ。

それが編集の方にいったら、プレゼンはぜんぜんない。雑誌は大特集でも、カメラマンと僕がいるだけでできちゃうし、ある種の軽さはキープできる。 広告は、スタッフもやたら多いしスポンサーもいるから、そうもいかない。でも独断で決めて少数で進めたほうが、実は成功する。大勢で会議で決めたものは、みんながいいと思う当たり障りのないものしか通らないから、たいした結果が出ない。

でも消費社会を成立させるために、広告は必要だと思う。僕にとって広告とは、“消費を促進させるのと同時に、消費者を楽しませるもの”です。

 

日本の広告の歴史を遡ると、歌川広重の「名所江戸百景」という浮世絵には日本橋の名店の広告が入っています。あと、日本の花火大会も当初の目的は商店や企業の広告ですよね。それらは、商業とアートの融合の極致だと思います。コウちゃんが第一線でやっていた広告全盛期は、いわば広告も花火のようなもの。サントリーの広告にランボオの詩やライ・クーダーを起用して、どう見る人を楽しませるか。コウちゃんは広告にアートを紛れ込ませるのが上手です。


#無趣味のかっこよさがある人

 

写真でもアートでも、クリエイティヴ業界で仕事をしていて、本を書く人と書かない人がいますよね。本を書くのはすごく孤独な作業だから、特にコウちゃんのように会社員でありながら本を出し続けているのはすごいと思います。それは、彼にはどこかしら余裕があるんです。また自分のことを人にわかってもらうのに、本があれば楽でしょう。一冊渡して読んでもらえばいい。かつて本は書店でしか売ってなかったから、店頭から消えると世の中に残らなかったけれど、今はAmazonがあるから、ネットの中ではずっと残っている。本は永遠なんです。

僕にとってコウちゃんは、良い意味で“若旦那”。全部が遊びで、生活の全てにおいてほどよい趣味がある人。以前、彼が自分を無趣味だと言っていましたが、無趣味のかっこよさがある人。彼のこれまでを振り返ると、「本当に一番やりたかった仕事かはわからないけれど、でも全部やりたいことだったんだろうな」と感じるように、どんな場においても翻弄されないスタンスがいい。コウちゃんとやってきた仕事は、僕にとっても“贅沢な遊び”かもしれないですね。



つづき...