プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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女友達に加藤恵理という女性がいる。
ぼくが会った女性の中では相当エキセントリックな人だ。
90年代はじめにLONDONで会った。
最初の印象はネイティブ・アメリカンの様だった。
湘南の出身なので、海や太陽のイメージも抱かせた。
あるとき、彼女は自分は「ジミ・ヘンの親戚なの」といったので、心底驚いてしまった。
ウソをいうような人じゃない。
「どういうこと?」
ジミ・ヘンにはふたりの母がいた。
ひとりは生みの母。ルシール・ヘンドリックス。
でも彼女はジミが3歳のとき、夫のアル・ヘンドリックスと離婚し、家を出て行ってしまい行方不明のまま、ジミが10歳のとき亡くなった。
その後、ジミはアルの男手ひとつで育てられ、ミュージシャンとなっていった。
1966年、ジミはロンドンを活動拠点にして注目を浴びはじめていた。
その頃、アルは日系女性と恋に落ち結婚した。
名前はアヤコという。
アヤコ・ヘンドリックスがジミのステップ・マザーとなった。
「そのアヤコとわたしの家族は血縁になるの」
とエリは語った。
それからしばらくして、1993年のこと。
「ジミの取材をしてくれない」
とエリから話がきた。
ジミ・ヘンについて書かれた本はいくつもあるが、どれも正しく伝えてない。
先祖に黒人とネイティブ・アメリカン(チェロキー族)を持つ血族の真実、恵まれない生い立ち、イラストレーターを夢見ていた少年時代の暮らし、デビュー前のこと、……死について、「正しく伝えて欲しいって、アルとアヤコにたのまれたの」とエリはいう。「それをできるのは日本人だっていうの」
アルもアヤコもジミの故郷であるシアトルの自宅で取材に応じてくれ、ジミのいた部屋も一族の未公開の写真も発表できるという条件だった。
そのころいくつかのメディアと仕事をしていたが、内容からして『エスクァイア日本版』が最適と判断し、編集長だった小澤英治に企画を持ち込むと、その場で制作が決定した。
エリをコーディネーター&インタビュアーとして、エディター&インタビュアーをぼくがつとめ、フォトグラファーは園木和彦の3人でシアトルに渡り、10日間程、取材をした。
そして『ジミ・ヘンドリックスの真実/彼こそは、プリンス・オブ・マンカインドだった。その魂は永遠だ』と題した特集号が刊行された。
3日間で、店頭からなくなった。
編集部にも一冊もなくなった。