森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

今週は奇しくも、かつていっしょに旅にでた3人を想い出した一週間だった。

ひとりは俳優の江口洋介だ。

初めて会ったのは彼がまだ俳優デビューする前、17歳だった。場所は今はなき六本木〈ホワイト〉だった。

「この男の子、いい役者になるから目をかけてよ、マッケン」

と彼の所属事務所パパドゥの、我々が「シャチョー」と呼んでいる社長、山田女史から紹介された。

その席には伊武雅刀もいたと思う。

そのころのことを江口洋介が最新の『週刊文春』“阿川佐和子のこの人に会いたい”で述懐していたのを読んでなつかしく想った次第。

17歳でパパドゥに入った江口洋介は、「当時は事務所はまだ小さく、映画の制作をしていたんですけど、そこに出入りしていた人たちが何というか、70年代の怪物というか…」「ゴジさん(長谷川和彦監督)や先日亡くなった原田芳雄さんといった、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で育った人たち。華やかな芸能界どころじゃない、不良の世界(笑)」と語っている。

話を補足すると、そのころパパドゥを事務局にしたディレクターズ・カンパニーという映画人の組織があり、所属していた監督はゴジの他に高橋伴明、根岸吉太郎、相米慎二、鈴木清順さんもいたかな。

「酒とフィルムと喧嘩とイデオロギー」というアングラな世界から江口洋介はキャリアをスタートさせている。

多分、ぼくとも何処か精神的には同調することもあったのだろう、夜の巷で絆は生まれ、彼が渋谷東にあったぼくの侘び住まいにギターを持ってやって来て、いっしょに曲作りをしたこともあるし、彼の実にセンスの優れた自宅におじゃましたこともあった。

そんな関係もあって、2001年、「マッケン、洋介、何処か旅に連れて行ってよ」とシャチョーに言われて、そのころぼくは中国通いをしていて、特に湖南省の天子山という仙境に足を運んでいたので、そこに彼といっしょに行った。

江口洋介はもうトップ・スターだった。

中国でも『東京ラブ・ストーリー』がTV放映され、人気が沸騰していた。

その大冒険旅行記は『天子山億年旅行』と題して『SOTOKOTO』に発表した。

天子山の山奥の村に滞在した。以下、旅行記より。

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村にたったひとつあるクラシック・ギターをチューニングし、江口が食後に弾きはじめる。村人はいろりを囲み、静かに耳を傾けている。エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン』の繊細なメロディーが流れる。子犬が2匹、ウソみたいにビクター犬のポーズで座っている。ビデオカメラでちっぽけなコンサートを記録する。それをカメラのモニターで再生して村人たちに見せると、大歓声があがった。

“僕は東京で生まれて、東京で育ったから、田舎暮らしって知らないんですよ。知らないから無性に憧れるんでしょうね。そこには金の匂いのしない生活とか音楽があるように思えるんです。こういうところにいると、自然でいられる。すべてが本物ですからね。火も家も、人も、本物ですから。肉だって、野菜だってね”

江口洋介、1967年生まれ。

1967年は世界中で若者たちの革命運動がはじまった年。自分の住みなれた街や国からかつてないほど若者たちが旅に出て行った年。

人類が月面に降り立つ直前、文明が本格的に機械文明に突入してゆく中で、若者たちは逆に野性の叫び声に目覚めていった年。

1967年に生まれた江口洋介は、2001年にはじめて67年型のマジック・カーペット・ライドを体験する。(『SOTOKOTO』NO.25より)

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山中を馬で移動し、電気も水道もない村の農家で土地の料理を堪能した。そんな旅だった。そこにギターがあれば、江口洋介は自然手にとり奏でた。

その旅を振り返って想えば、何処まで行っても土、土、土の、土まみれの旅だった。真の暗闇、真の道、真の草…

その土の世界でアコースティック・ギターを弾く江口洋介は、TVやスクリーンに見る人気者とはまったく別人の、本人語るところの「金の匂いのしない」バガボンドだった。

シャチョーが「旅に連れてってよ」とぼくに言ったことの趣旨は、多分、そういうことだったのだろう。

編集者は時として、そういう魂の道先案内人となって、若者を未知の世界へと連れてゆく仕事もする。


2人目はファンタスティック・プラスチック・マシーンの田中知之だ。

しばらくPCが不調でインターネット・ワールドに御無沙汰していたが、復旧したので、町内めぐりのようにWONDERINGしていたら、布袋寅泰のホームページに、田中知之との対談がUPされていた。

内容は布袋寅泰の最新アルバム『HOTEI with FELLOWS/ALL TIME SUPER GUEST』に田中知之はリミック・ワークで参加し、『BAD FEELING』を手がけた、その裏話。

このアルバムはぼくも聴いていた。その 『BAD FEELING』 が一番インパクトを強く感じた。

HOTEIはBOOWY解散後すぐロンドンに渡り、ソロ第一弾の『GUITARHYTHM』の制作に入った。そのとき、ぼくはいっしょにいたが、よくロンドンのホテルで聴いていたのはイエローやナイン・インチ・ネイルズだった。

つまりテクノとロックンロールを融合したフューチャリスティック・サウンドで、そのころイギリスにもジーザース・ジョーンズが登場し人気をえていた。

圧倒的に踊れるテクノ&ロックンロール。

今だとマイルドだけどサカナクションはその系譜かも知れないな。

『GUITARHYTHM』は、その新境地を目ざしたかなり実験的アルバムだった。象徴的な収録曲がテクノ版『COMON EVERYBODY』だった。

今回新作ではジグ・ジグ・スプートニクがその曲をカバーしている。コレもかなりイイネ。

HOTEIのソロになったときの初心が田中知之リミックス『BAD FEELING』で甦っている。

本当は、この路線で世界へと飛翔していきたかったのではないか。

元々、田中知之はHOTEIにリスペクトの熱い想いを寄せていた。特に、『KILL BILL』(タランティーノ)のサントラを聴いた田中知之は、HOTEIの『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』に他のどの曲よりも頭抜けた音楽性を感じていた。

田中知之にすれば、今回のコラボレーションは念願達成といえる。

その田中君とは、個人的に因縁があった。彼はDJデビューの前に関西で編集の仕事に従事し、その仕事では先輩になるぼくを知っていた。

4年前共通の友人を介しバーで会い、酒を飲み、その後ラジカセの超ビンテージ物をプレゼントし、いっしょに何か仕事をしようと話し合っていた。

そのチャンスがやって来た。

オリンピックを翌年に控え、『BRUTUS』が2007年に、北京の特集を制作することになった。

全体のディレクションを依頼され、すぐに田中知之が最新のカルチャーシーンを探訪するというアイデアが浮かんだ。

企画を彼に伝えると、「是非とも」と即答だった。

北京に行くなら、彼が「是非とも」会いたいという人物が、こっちが会って欲しいとリストアップした人物と奇しくも同一だった。

北京に長らく住み、音楽シーンでいち早くレイヴパーティーを主催。中でも万里の長城に何千人と集めたパーティーを仕掛けて世界的ニュースになった。その黒幕のKIKO SUだった。

ふたりの対談をメインのコンテンツとして、他には最新の芸術区だった798、フィリップ・スタルクがプロデュースした最新のクラブ〈Lan〉、老北京街の古書店らに案内し、彼の音楽仲間の招待で、タランティーノが『KILL BILL』撮影中毎晩通っていたというクラブにも足を運んだ。

北京で田中知之とたっぷり話す時間をえて、京都出身の彼が仏教系の大学に在籍していたことを知った。

初めての北京の印象は、


「京都には東京にはない独特のバイブレーションというか、霊的な力がある。それを初めて来た北京に感じた。なんか京都にいるような気分で、自分が殺気立たず、安心できる。それはなぜだろう?北の京って書くからなのか、京都のルーツがこっちにあるのだろうか?(後略)」(『BRUTUS』2007/5・15より)


という精神的なものだった。


そして3人目は、とても残念なことにもう本人は他界してしまっている。

久しぶりにゴールデン街に行った。もうなじみのバーは一軒もない。

路地をうろついていると、知人の編集者と出くわし、彼のなじみのバーに連れて行ってもらった。

6、7人も入れば満杯になってしまうカウンター・バー。

ママとの雑談で、彼女がナベゾこと渡辺和博の大親友だったと知った。

渡辺和博はみんなからナベゾと呼ばれ、人気のイラストレーター&コラムニストだった。『金魂巻』がベストセラーとなり時の人にもなった。

しかし、数年前にガンで亡くなった。

そのナベゾの想い出話にママと興じた。

ぼくの一番の想い出は、ナベゾのお父さんも同行した中国旅行だった。

1989年、天安門事件が勃発し、中国旅行が厄介な気配濃厚になっていた頃、逆にこういうときこそ旅が面白いんだと、出かけて行った。

その旅行記はANAの機内誌に、『親父と行く、中国』というタイトルで発表した。

珍道中となった。

ぼくはその旅行記を大幅に加筆し、『初めての中国人』に発表した。

以下、全文転載。


中国はその悠久の大河的時間の流れの中に、たくさんの人たちの旅の思い出を、磨き磨かれた玉石のように深く沈めている。僕は、そのひとつを拾いあげてみる。そして手のひらにころがし、のぞきこめば、こんな中国旅行が見えてくる。

渡辺和博は、生前みんなからナベゾと呼ばれていた。そのナベゾと中国を旅したのは、1990年、天安門事件の翌年であった。ナベゾは既に『金魂巻』の大ベストセラーを放ち、マンガ家、イラストレーターというよりも、コラムニストとして人気者になっていた。

それはナベゾと初めての、海外旅行だった。

ナベゾとは1976年に出会い、その後、公私共によくつきあった。1950年生まれの同い年だった。ナベゾは僕の自宅にも遊びに来たし、夜の街でも一緒に随分と楽しんだ。

僕は最近になって実感したのだけど、ナベゾ自身も、ナベゾが書く文章も、田中小実昌さんによく似ている。田中小実昌さんの書いた紀行文を読んで、そう想った。

この間、沖縄の沖縄市(旧名ゴザ)の胡屋に行った時、古本屋でナベゾの古本を買って、読んだ。見る目が違う、見ているところが違う。どうして、そういう感覚になったのか、僕は、最近、あの一緒に行った中国旅行を思い出してみる。あの時は、どうだったっけ…。

東京のどこか、西麻布辺りの焼き鳥屋だったか、ナベゾに「中国の山水画みたいな絵を描いたら面白いんじゃないの」と思いつきを口にしてみると、「うん、うん。そんなとこあるなら行ってみたい」という話から、数ヶ月後、僕らは北京を発って安徽省の屯渓へと飛ぶジェット機の中にいた。

ナベゾの隣りには、お父さんの渡辺彦助氏。72歳。広島からやって来た。

「和博が初めて海外旅行に連れて行ってくれるっていうからついて来たけど、何があるのかネ」と、彦助さんは成田空港で言っていた。50年ぶりの中国だ。

「22歳の時、わたしは薬剤少尉として中国の哈爾浜(ハルビン)にいたんだ。あの町にはシャレたカフェ、レストラン、ナイトクラブ、何でもあった」

 彦助さんは屯渓へ向かうジェット機の中で思い出している。話から想像するハルビンは、30年代のパリや50年代のニューヨークのようだ。

「今でもハッキリおぼえているのは白系ロシア人の経営するレストラン。名前は〈ファンタジア〉だ」

「ファンタジア!?」

僕はのけぞる。

「贅沢な店だった。ウォッカも飲めたし、キャビアも食べられた。最上級のビーフステーキだって食べられた。お客はみんな紳士淑女だよ。わたしはそこに毎晩のように通った。軍から支給されたコートの裏にハリオカという動物の毛皮をつけてた。あの頃のハルビンは東京より文化が進んでいた。チョコレートショップはあったし、デパートの一階にはアイスクリームショップもあって、木イチゴのアイスクリームは、そりゃ、旨かった。ハルビンには河辺にヨットクラブもあって、そこでウォッカを飲んでいい気持になってると、ロシア人のヴァイオリニストがやって来て、『黒い瞳』を演奏する。カフェでは、よく美しいロシア娘と踊った。雪の降る街をロバに乗って帰っていったり、なんとも楽しい日々だった。わたしは、中国はそれ以来ですから、50年ぶりです」

彦助さんの思い出の中国は、白系ロシア人たちの亡命地だ。そこは中国だけど、中国じゃない。戦争中のことだし、苦労もなきゃおかしいのに、彦助さんは苦労話をしない。

ジェット機は屯渓空港に着陸する。ここから車で山道を3、4時間走ると、名山・黄山の幻想境に到る。黄山に向かう前に、屯渓の町で一夜過ごす。町の中心を河が流れていて、日本の古い町を想わせる。京都や金沢のようだ。

河に沿って、およそ全長1500メートルもある老街が残る。老街とはオールドタウン。南宋をルーツとし、明代、清代、長きにわたって栄えた一大遊廓だったとわかり、彦助さんは興味津々だ。画伯ナベゾも眼を輝かす。老街を散歩する。建物はみんな元遊廓。その一階が商店に使われている。食堂、服屋、骨董屋、銀行、惣菜屋、印形屋、家具屋、雑貨屋、自転車屋…。

ナベゾは雑貨屋でキューティなタイガーデザインの温度計を買い、彦助さんは音像商店(ミュージックショップ)を見つけて飛びこみ、香港系じゃない(ここにこだわり)少数民族系の音楽テープをいきなり10本も買った。これで彦助さんが音楽好きとわかる。乾物屋に入ると、煮干しのような小魚を見て、「これは唐辛子と醤油で煮たら、旨い酒の肴になる」と袋いっぱい買っている。

この買物の感覚を見て、ナベゾに、「お父さん相当な旅人だね」と誉めると、「お父さんの仕事を見てると、自分で簡単な化学装置とかをつくったり、オタクなところがあるなって思ってたけど、ひとたび海外旅行に行くと、自分でインディージョーンズしてるんだよ」と感心している。その父親の息子は、「面白いね、この街。建物は一階が商店で、間口がみんな5メートルぐらい?その二階はみんな彫り物の細工がしてあって、それをよく見ると一軒一軒みんな違う。それが窓になっていて、二階の高さが、日本だと三階ぐらいの高さで、この感じって“天上世界”風でしょ。プリンスのコンサートみたいにスモークをたくと、これは本当の雲上世界に見えるだろうな」なんてところを見ている。見物しているうちに、雨が降りだし、雨宿りに一軒の古い食堂に入った。

大きなテーブルを、僕らとガイドについている中国人の若者ふたりで囲む。若者ふたりは市の旅游局という役所の服務員。ひとりは男の子、ひとりは女の子。日本はアメリカの影響を強く受けている、などと話しているうちに、ナベゾが男の子のS君に、「君は、何の影響を受けているの?」と訊くと、S君は胸を張って、「僕は、自分のエーキョーが大切だと思うのです」と言ったので、ナベゾは感心してしまった。彼らと別れたあと、ナベゾは「S君の言った、自分の影響っていいね」と言っていた。彦助さんも、「中国の若者は、すごくシッカリしている」と同調する。

翌朝、車で黄山を目指す。

黄山は安徽省南部にそびえる大小72の峰。天下の名山として知られる。その名の“黄”に伝説が語り継がれる。古代の王様・黄帝が不老長寿の秘薬を求めてこの秘境に入った。だから黄と名づけられた。中国では最も高貴な色と言われている。

72の峰はそのどれもが、山水画に見る山のように険しくそびえ、雨や霧がけむる空に奇なるシルエットを映す。東洋の神秘だ。だから、昔から有名な詩人や画家らが、そこを訪ねている。途中の山の中でさえ本当に美しい。第一、農民たちの家が白亜の御殿。南仏の別荘の様な造りだ。多分、漆喰なのだろう。日本の農家とまったく趣を異にする。ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』では、幻のシャングリラはチベットの奥地にひそむ話になっていたが、そこで描かれた理想郷と似ている。ニューヨーク市長もつい最近ここを視察に来て、深く感動して帰って行ったとS君が教えてくれる。

町から黄山山頂へ旅行客を運ぶ小型バスの中にいる。ナベゾと隣り合って座る。彦助さんは前方の席に陣取っている。見ていると、旅の間、親子にほとんど会話はない。

「ふたりで一緒にいても、ほとんど喋らないね。話したくなれば話すけど。昨日話していたハルビンの話も、初めて聞いたのは20年前ね。お父さんは広島で渡辺化学工業っていう会社やってたのね。仕事は医学実験用の試薬を開発するの。研究者タイプね。その商売がうまくいかなくなって、従業員がみんなやめてった。僕はその時、東京にいてまだ学生だった。お父さんが、帰ってこいっていうんで、僕は広島に帰って、親子ふたりで黙々と工場の整理をやったの。その時だよね、お父さんがハルビンの話したの。すごく懐かしそうにね」

その5年後、ナベゾは青林堂に勤め『ガロ』というマンガ雑誌の編集者になっていた。まだ漫画作品を発表する前だったが、編集後記の頁にちいさなカットを描いていた。その絵を見て、僕が編集長をつとめていた雑誌の仕事をナベゾに依頼した。そこからナベゾとのつきあいがはじまった。

「ちょうど、その頃だよね、お父さんから出版社に電話があったのね。商売はまたうまくいくようになってて、何かなと思ったら、お父さんが、“お前、レニングラードに一緒に行かないか”って言うわけ。ビックリした。突然なんで。僕は海外旅行なんて行ける身分じゃなかったけど、お父さんは医学関係だったんで、その仕事柄、しょっちゅう海外に行ってた。だから何を思ってか、お父さんが僕を海外に連れて行ってくれたんだね。一緒にレニングラードへ行ってオペラも見たし、バレエも観た。その時、一番ビックリしたのは、ツアーの団体客の中にいた白人の若い女の子とダンスしてるお父さん。踊りが好きなんて思ってもみなかったからね。今回、こうしてまた一緒に旅していて、まったくその時と変わってない。元気でいいなと思った」

やっと山頂に到着した時には、天気は荒れていた。黄山の年間降雨日数は200日を数えると聞いていたので、予想はしていたが、雨雲は厚く、雨は激しい。

黄山の名勝を天下にしらしめる「三奇」なる絶景など影すらも見えない。やむをえず、1958年開業のホテル〈北海黄館〉でひと休みする。ナベゾと彦助さんの部屋にお邪魔して、みんなで中国茶を飲む。彦助さんはベッドの上で、開げたノートに貼りこみをしている。航空チケットや案内の印刷物、食べたり飲んだりした商品のラベル等の紙を貼りつけている。「もう、20年くらい、コレやってます」と彦助さんは、外の悪天候など少しも気にせず、作業をつづけている。「三奇」とは、山水画の主題となる「奇松」「奇岩」「奇雲」のこと。見れるかな?ナベゾは、それを描きにここまで来たのに、どーしよう。

「こういうのも、運なのかな?」

と、僕が口にすると、彦助さんは言う。

「運はある。人生過ごしてみて、わたしがわかったのは肝心なのは運だということです。戦争中、敵の空爆を受けた。爆弾が兵舎に落ちてくる。急いで、兵舎を飛び出し、逃げる。外へ飛び出した時、右と左に分かれて走る。その時、右に行った者が機銃掃射で撃たれて死に、左へ行った者は助かった。そういう運命の分かれ道が何度も人生にはある。私は、運がよかった」

「運は何によって決まるのでしょうか?」

と僕は訊く。

「人に憎まれたり、怨まれたりしたら運はなくなる。じゃあ、外に出かけてみましょう。雲や雨がやって来て、きっと絶妙な陰影をつくりだしてますよ」

「三奇」の展望地点にみんなで立つ。眼を前方に凝らしてると、15分ほどで、雨がやみ、少し風が吹きはじめた。胸が高鳴る。「見えてきました」とS君が声をあげる。

「スゴイぞ、これは」

ナベゾが言う。谷底から風が吹きあげてきて、谷間が形を黒々と見せてゆく。そして、「奇松」「奇岩」「奇雲」の絶景が眼の前に出現した。

「山水画、そのまんまだ」とナベゾが興奮している。雲は霧のように薄くなり、谷間を激しく動きまわっている。龍でも棲んでいるんじゃないか、と思うほどに。「これはスモークショーだね」とナベゾが何かを見ている。

「スゴイ物を見た。僕はわかった」

ホテルに戻り、夕食までの時間、またみんな渡辺親子の部屋に集まっていた。彦助さんは、風呂場に入り、湯につかっている。僕らは茶を飲みながら、先ほどの体験を話し合ってる。霊験あらたかな気分だった。

ナベゾに僕は訊いた。

「何がわかったの?」

「故宮にある立派な香炉、あれ、スモークマシーンでしょ。あれは黄山の雲上世界を見た人が発明したんだよ」

ナベゾが言って、みんな笑った。

そうそう、ナベゾみたいな人がつくったんだよ、と僕は思った。

翌日の夕方には屯渓の町に戻った。ホテルに帰ると、ロビーが華やいでいた。白人の女性が、パーティドレスを着て何人も歩いている。「今夜はホ

テルでダンスパーティがあるそうです。みんなで行きましょう」とS君に誘われる。

その日の昼間、ホテルの大広間では貿易関係の国際会議が開催され、夜はその打ち上げダンスパーティ。会場を訪ねると、それは盛大なパーティだった。会議の関係者だけでなく、老街の店の女の子たちやホテルの服務員、宿泊客、と参加自由なパーティで、ただ不思議なことに会場には何ひとつ飲食物がない。しかも禁煙。パーティはただ踊るだけ。全員が踊っている。仕事で来ている警察官も踊っている。安っぽいディスコ調の音楽に乗って、男と女がまさに『Shal l we ダンス?』に興じている。

彦助さんは、フロアーの踊りの中に入ってゆく。こりゃ、僕らも踊るしかないな、とステップも踏めないのに、フロアーに飛び出し、相手を見つけて体を動かす。ジェスチャーで申し込めば、誰もが相手をしてくれる。みんな踊りがうまい。

彦助さんは次から次へとチャイナガールの相手を変えて踊り興じている。それは72歳とは思えない軽快な踊りだ。僕らは席に戻ったけど、彦助さんは一向に休む気がないようだ。その姿を見て、ナベゾが言う。

「レニングラードの時も、ああやって踊ってたんだよね。だから、中国で踊ってたって、お父さん全然変わってないんだ」

「お父さん、ああやって踊りながら、中国で何、感じてるのかな?」

「全然、僕らと違うことだよ」

翌朝、ホテルの食堂で、朝食を食べながら、僕は彦助さんに訊いてみた。

「お父さん、ダンス、どうでした?」

彦助さんはニッコリ笑って、

「今度の旅は昨日のダンスが一番よかった。中国の若い子と、初めて踊ったけど、実に愉快だ。ダンスが一番面白い。ダンスっていうのは、菜の花畑を雄と雌の蝶が離れたりくっついたりしながらまわっているようなものだ。昨日、ダンスしてわかったのは、中国の大学生はどこの国の女の子よりも、上品だった」

ナベゾも彦助さんも、もうこの世にいない。ふたりと中国を旅して、世界を見る術、感じる術を教えてもらった。

それはとても幸運なことだった。

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