プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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さよなら、御供
5月9日の7時ころ、後輩の御供秀彦から何度か着信があったが、来客とのつめた会話の最中で応えられなかった。
その翌日、ノブりんから、御供君が亡くなったとメールがきた。
死因は心筋梗塞だった。
9日、彼は普通に過ごしていたが、奥さんが外出して帰宅すると、絶命していたという。
いつもと変わらぬ日常に特攻のように切り込んでくる突然の死!
最期の時に、何が彼の脳に胸に鼻腔によぎったか?
御供君は1970年代から80年代にかけて雑誌『POPEYE』の花形エディターだった。
学生のころからフリーの編集者となり、何度も表紙のモデルになっていた。
イケメンではないが、センスもよく、様になった。
元々はアイビー少年だったが、取材でアメリカに通ううちに、ヒップに変身していった。
80年代の中頃には西麻布のDJクラブ〈トゥールズ・バー〉のプロデューサーにもなっていた。
いわゆる、西麻布の顔役でもあった。
彼はアメリカにも多く友人をもち、キース・へリングやデニス・ホッパーとも知己だった。
彼の服のセンスは抜群で、スタイリストとしても活躍していた。
しかし、本人は詩を書くのが好きで、いつも、体に似た大きな字で日々の出来事を詩にしたためていた。
彼とは遊び仲間だったが、仕事は何度かしていた。取材のコーディネートを依頼したり、僕の連載のスタイリストをしてくれたり。
90年代はじめ、日本版『エスクァイア』に僕はMEN’S MEN’S ST YLEという連載ページを持っていた。
ひとりのデザイナーを選び、服を撮影し、ぼくがデザイナー論を書く。
その仕事のスタイリングを御供君に依頼した。
80年代に一世を風靡したデザイナーズ・ブランドがまだ残照のように輝きを残していた。
やがて消えていく運命にあったが、彼らの服には表現者としての強い主張を感じることができ、連載を企画した。
御供君はそのスタイリングに適任だった。
彼とはブラザーといえるつきあいを重ねたが、のちのち、あることが発覚し、驚愕した。というのは、生年月日がピタッと一緒だったのだ!
1月21日!
ぼくは1950年の、その日だが、彼は5歳下だったか。
同じ日に生まれたブラザーがもうひとりいる。
ミックこと立川直樹。
1949年1月21日生まれ。
1月21日生まれの三兄弟みたいなもんだ。
嗜好らで、多くの共通点があった。
しかし、三男は、ぼくらより先にいってしまった。
ミックとのダイアローグのクラブ・シャングリラでは、ミックをM、ぼくはニックネームのマッケンジーからM'。
それに御供君が参加していたら、M''にしただろうな。
しかし、早くいくものの多さに、愕然とする。
昨日は、自分の出版記念パーティの席で松坂さんからユキエが、トミーからバルビゾンの伊藤さんが亡くなったことを教えられた。
明日は、我が身か。