プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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山手線車両をおりた渋谷駅ホームで目に飛び込んできたのはディランだった。
目撃したのは本人であるはずもなく数日間連続的東京公演を伝える特大判ポスターなのだが、それも一枚ではない。ひとつの壁面全体を埋めている。つまり何枚もだ。
商業にまみれた街のホームの雑踏という極めて低俗な場に哲人ボブ・ディランの風貌は、まさに救世主が地上に降臨! 『ディランが町にやってきた』、本だったか映画だったか? そんな感じだ。それは以前地下鉄の駅ホームにジャクソン・ポロックの作品を使った展覧会のポスターを見たときの衝撃! に次ぐ。が、ひどく場違いな印象を感じた。ポロックは場に当たってたが。
しかし、紙ものはスゲ~、な。渋谷駅から出ればスクランブル交差点を四方八方取り囲むビル群に設置された電子スクリーンにはいつも趣向を凝らした映像が流れているが、そんなもんには何にも感じないぜ。ディランのポスターは引っ剥がして盗む不届者もいるんだろうな。紙ものは数の限りがあるからやがてお宝ポスターになって取り引きされるんだろうな。でもポスターはしっかりパネ固定されていた。
んなことを思念した渋谷駅だった。
ディラン@日本のエピソードでいちばん好きなのはファッション・デザイナーの佐藤孝信から聞いた話だ。コーシンはディランなんてまったく興味もない。コーシンはマイルス・デイヴィスのホントの親友だった。マイルスが来日したときに親身になって世話をしていたのがコーシンだ。
マイルスはブルース・リーのファンだったので、来日中のマイルスのためにコーシンはリー主演のビデオを毎日一作づつホテルに届けてあげた。親友とはそういうもんだ。ブルース・リーというのがいい。これが黒澤じゃ、お利口さんな感じ。不良はリーでしょ、怒りの鉄拳でしょ。
コーシンはかつて愛車名をデザイナーズ・ブランド名、アーストン・ボラージュにしていた。コーシンは60年代には新宿に群雄割拠していた不良たちのチームのトップ「紀伊国屋グループ」の一員だった。「俺は遊び着しかつくらない」が信条。ぼくもアーストンの服は大好きだった。
ファッション・デザイナーが世界に進出する場合、ひとつの伝統がある。パリ・コレだ。コーシンがパリ・コレの舞台に立ったかどうかは知らない。コーシンはニューヨークを舞台に選んだ。地下鉄のトンネルをクラブにした〈トンネル〉でショーを開催したときには、マイルスを「帝王」に見立て、ウォーホルを「家臣」役で共演させた。真冬の開催だったので、ウォーホルは風邪をひき肺炎になり死去した。
コーシンのアメリカでのマネージメントをしていたのがディランやニール・ヤングのコンサートのブッキング業務をになっていたオフィスだ。だからディランとは間接的に繋がっていた。
その縁があってディランが六本木にあったアーストンのアトリエに現れた。マイルスもアトリエにやってくると、割引きの商品を何百万円も買っていた。コーシンはディランのことは知っていたが、本人にも歌にもまったく関心がない。ヘッ、フォーク? 程度。
アーストンはメンズ・ブランドだが、ユニ・セックスなデザイン感覚だった。ディランは女っぽいシャツを割引き価格で80万円ほど買った。ディランの哲学者的なイメージと買った服が重ならないので、コーシンは聞いたそうだ。
「それ、自分できるの?」
ディランはバツわるそうに答えたそうだ。
「いや、オンナに買ってきてくれってたのまれたんだ」
ワオっ!
ディランというと、そのエピソードを思い出す。
ディランはやってくる。
ぼくは何かディランに関する仕事はしただろうか? どうだろう?
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あー、あれか? クライブ・デイビスが米国レコード業界の裏側を書いたノン・フィクション・ブックの出版権を買い、それに書かれていたディランとのビジネス秘話をぼくが編集長をつとめた音楽誌に発表した。ディランがどんなふうにビジネスに対処していたか? をCBSコロンビア・レコードの代表をつとめていたデイビスがリアルに綴ったそれは、売ることに関して彼は人まかせではなく、かなり真剣に取り組んでいる姿を明らかにした。
1976月1月に発売。雑誌名は『FOR LIFE』、アート・ディレクターは田名網敬一。
ディランの記事のタイトルはーーーー『くだらない!』ディランはそう言って部屋から出ていった---。と本文の一節を引用。田名網さんの発案で当時ロック・イラストレーションで売り出し中の吉田カツを起用、仕掛けものの絵を描いてもらった。これはぼくが26歳のときの仕事だ。
仕事ではないが、ぼくはディランのステージを奈良東大寺大仏殿で見ている。〈あおによし〉というユニセフ主催のエイド系フェスにディランはライ・クーダー、ジョニ・ミッチェルらと出演。ぼくは関係者パスをもらっていたので、大仏殿のバック・ステージにはいれた。間近に見たディランは如来像に値する凄まじいオーラを放射し、近寄り難いまさに「孤高」「崇高」という存在そのものだった。とてもいまの時代に生きている人間とは思えなかった。古代の仏神のようだった。
そして現代的なトレンドなどなにひとつ身につけていないのに、そのすべてが自前の自己演出であろうスタイルは圧巻だった。
ディランはステージでは一語も観客に語ることなく進行上決められた自分の公演時間にキチッと終えるようなパフォーマンスだった。そのステージ上のディランが映し出されたモニター・テレビを、バック・ステージで椅子に身を乗り出すように座り微動だにせず凝視していた東大寺管長! その時間に「西洋」の精神と「東洋」の心が銀河を天に飾る奈良の一夜にスパークしている気がした。それを見ていたので、ディランはもう見なくてもいいやと思う自分が渋谷の雑踏を朝歩いていた。