プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
- TEXT:
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- Special
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
- 31
- 32
- 33
- 34
- 35
- 36
- 37
- 38
- 39
- 40
- 41
- 42
- 43
- 44
- 45
- 46
- 47
- 48
- 49
- 50
- 51
- 52
- 53
- 54
- 55
- 56
- 57
- 58
- 59
- 60
- 61
- 62
- 63
- 64
- 65
- 66
- 67
- 68
- 69
- 70
- 71
- 72
- 73
- 74
- 75
- 75-2
- 76
- 77
- 78
- 79
- 80
- 81
- 82
- 83
- 84
- 85
- 86
- 87
- 88
- 89
- 90
- 91
- 92
- 93
- 94
- 95
- 96
- 97
- 98
- 99
- 100
- 101
- 102
- special 2
- 103
- 104
- 105
- 106
- 107
- 108
- 109
- 110
- 111
- 112
- 113
- 114
- 115
- 116
- 117
- 118
- 119
- 120
- 121
- 122
- 123
- special 3
- 124
- 125
- 126
- 127
- 128
- 129
- 130
- 131
- 132
- 133
- 134
- 135
- 136
- 137
- 138
- 139
- 140
- 141
- 142
- 143
- 144
- 145
- 146
- 147
- 148
- 149
- 150
- 151
- 152
- 153
- 154
- 155
- 156
- 157
- 158
- 159
- 160
- 161
- 162
- 163
- 164
- 165
- 166
- 167
- 168
- 169
- 170
- 171
- 172
- 173
- 174
- 175
- 176
- 177
- 178
- 179
- 180
- 181
- 182
- 183
- 184
- 185
- 186
- 187
- 188
- 189
- 190
- 191
- 192
- 193
- 194
- 195
- 196
- 197
- 198
- special 4
- 200
- 201
- 202
- 203
- 204
- 205
- 206
- 207
- 208
- 209
- 210
- 211
- 212
- 213
- 214
- 215
- 216
- 217
- 218
- 219
- 220
- 221
- 222
- 223
- 224
- 225
送られてきたCDを見て、「そうか、いまごろ60歳になったのか?」と感慨深い思いになった。
ゴンチチが結成30周年、今年で還暦を迎える。
彼らと初めて会ったのは80年代半ば、結成1、2年目だった。
その頃、彼らは30代はじめなのにずいぶんと老成した印象だった。
数年前、自著『One+One』に彼らのことを書くために取材したとき、松村さんから若い頃には老人願望があったと聞いて事情を察した。
だから、僕より老けていて、もうとっくに還暦を迎えていると思いこんでいた。
何はともあれ、還暦はおめでたい。
よくぞあれだけ趣味的な音楽一筋で30年もやってこれた。
これは、矢沢永吉に匹敵する功績だ。
日本ばかりじゃなく外国でも、歌なしの音楽はレコード会社に歓迎されなかった。以前、本人から聞いたのだが、坂本龍一がUSAヴァージンとアーティスト契約を結んだとき、インストゥルメンタルを本人は望んだが、レコード会社側は歌入りを要求し、結局ポップスになってしまったと苦々しい顔で言っていた。
ゴンチチは世に媚びず、業界の慣習にも従わず、独自のスタイルを通した。
はじめての出会いは、彼らをサポートしてくれないかと所属レコード会社から頼まれて、新宿でレコーディング中のふたりを訪ねた時だった。
そのとき挨拶がわりに、ごく一部のマニアのみ知るジャック・タチの『僕の伯父さんの休暇』のビデオを持参した。そんなヨーロッパ調のバカンスの世界が彼らには合うと思えたのだ。
初対面でなんとなく気が合い、すぐに恵比寿のエスニックレストラン〈にんにくや〉で、彼らのライブを開催した。
松村さんが僕の家に遊びに来たりもした。
どういうわけか本当に肌が合い、別にしょっちゅう合うわけでもないのに、親友という間柄だった。
一度、彼らと旅をした。旅先は伊豆大島だった。調布の飛行場から16人乗りのプロペラ機で島へ飛んだ。高所恐怖症らしき三上さんは飛行中ずっと顔が青ざめていた。
旅は、ゴンチチのニュー・アルバムをプロモートするためのブック制作が目的だった。カメラマンは伊島薫。アートディレクターはミック板谷。ふたりはカセットマガジン『TRA』のメインスタッフだった。
島に渡ると、はじめは晴れていたが、突然なんの前触れもなく大雪が降った。
ヤシの木林が雪で真っ白になるという奇妙な写真が撮れた。アロハシャツのふたりは寒さにブルブル震えながらギターを弾いた。観客は僕らだけという贅沢さ。夜、民宿でも僕らと宿泊客のために彼らはギターを弾いた。
プロモーション・ブックはカセットテープとブックレットを合体させたものだった。伊島薫の写真とミック板谷のアート作品とテキストで構成した。
テキストは僕とゴンチチのふたりと山口雅也が担当した。山口雅也はのちに福田和也が『作家の値うち』で最高得点を付けるほどのミステリー作家となるが、そのころはまだ駆け出しのライターだった。
ブックレットのタイトルは『麗しき夏の響きよ。』。モダネラ島という架空の島でのレコーディング秘話やジャック・タチ風のヴァケーション物語にニュー・アルバムの音が鳴り響いているといったようなトロピカルな世界を表現した。
このブックレットには手作業で匂いをつけた。
匂いは、僕がバリ島で手に入れたサンダルウッドの原液を滴らせた。
80年代は、そういうプロモーション用のツールに、特にお金をかけるというわけではないが、アイデアを凝らしたブックレットをレコード会社が積極的に製作し、それがアーティストのイメージを創り、場合によってはアーティストの作曲活動にインスピレーションさえ与えていた。
このクリエイティブワークで最も活躍したフリー・エディターが自宅で焼死した川勝正幸だった。