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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

久しぶりに中国人の盟友・李長鎖に会った。赤坂のしゃぶしゃぶ屋で、彼の仲間の中国人たちと大いに牛肉を食らい、酒を飲み、歓談した。

李さんとは、もうかれこれ20年に及ぶつきあいだ。今はなき『ガリバー』というトラベル・マガジンの仕事で、中国全土をいっしょにまわって以来、主に全日空のインフライト・マガジンや『SEVENSEAS』『BRUTUS』『SOTOKOTO』らで取材の仕事をした。

『北京』という共著もある。

しかし、北京オリンピック以降は、自分は中国に行かなくなり、いっしょに仕事する機会がなくなった。

それでも、年に2、3回は会って食事をしたり、カラオケ屋に行ったりはしていた。

今年、初めて李さんに会った。

「もう、中国は何処も再開発されてしまって、ダメですね」

と残念そうに言う。

「シルクロードの方も、政府軍とウィグル族の内紛がエスカレートしてるでしょ。もう観光なんかで行ける状態じゃないですネ?」と訊くと、

「外国人は来なくなってますね。だけど、中国人には人気です」

「結局、会長と行ってた頃がギリギリ最後だったんですかね」

「それで、あの写真集できたんでしょうね」

と、会話した。

あの写真集とは、話に出てくる“会長”こと篠原弘明氏の『森羅/TRIP to the UNIVERSE』(中国撮影出版社)のことだ。

この写真集の表紙を飾るのは、民間人入境禁止の、秘密の地区だ。

地名はバインブルグという。

その地にまつわる話を、自分は篠原氏との数奇な出会いを含め、ひとつの物語に書いた。以下、引用――


2008年は正月3日から旅に出た。休暇ではなく仕事だった。沖縄の旧名コザ、現・沖縄市の〈サンライズホテル〉に一週間滞在し、アメリカ文化の遺産を探しまわった。その仕事を終え、1月16日、中国の広州に渡航した。〈フォスター電機〉の創業者にして、現在、相談役の肩書を持つ篠原弘明さんと、篠原さんの写真の先生である李長鎖が一緒だった。

旅の目的は、広州の一地方、番禺(バンヨー)にある工場の視察と旧暦新年のパーティへの出席。フォスター電機は、既に20年近く中国で生産活動をつづけていた。

フォスター電機は1945年創業のスピーカー・メーカーだ。50年代中頃には、世界初のトランジスターラジオTR55を開発したソニーに自社スピーカーを提供し、世界進出の足がかりをつかんだ。その後、オーディオ機器の品質向上に世界のメーカーが開発競争をくり広げてゆく時代に、フォスター電機はたえず発展を遂げ、販売先はGM(ゼネラルモーターズ)、フィリップス、ボーズ、JBL、B&W等に拡がってゆく。工場や支社も世界規模になり、アメリカはシカゴ、LA、ヨーロッパはドイツ、アジアは香港、台湾、シンガポール、そして中国等に進出。現在はAPPLEが取り引き先になっている。中国広州市バンヨーの工場は、フル稼働する生産体制の要を担っている。

広州の国際空港から、車で番禺(バンヨー)に入り、中心部のホテルにチェックインする。既に、夕刻。ホテルのレストランで、支社の中国人スタッフと会食をした。10人に優に座れる円卓につき、歓談のひとときを過ごす。香港支社創設メンバーのひとりであるL女史が、思い出話を語る。それも、笑いながら。

「わたしがはじめて相談役に会った時、相談役は髪が長くて、服も探検隊のようなジャケットを着て、なんていうんですか?ヒッピー?そんな感じでビックリしたんです」

「ヒッピー!?会長が?」

「そう、ヒッピーです」

とL女史は、おかしそうに笑う。

「いやね、アフリカから来たからね」

会長も笑いながら、思い出話に興じる。

「それ、いつの頃の話ですか?」

訊かずにはいられない。

「あれは昭和48年。ケニアのキリマンジェロの麓(ふもと)までライオンを見に行った。その頃、私は髪を長く伸ばしてた。私だけでなく、社員も髪型や服装は自由だった。仕事さえちゃんとやってくれていれば、私はそれでいいと思っていました」

会長は今もアーノルド・トインビーの言葉に共感を寄せる。それは、「物質的な豊かさということは、精神的な貧困をもたらすものでしかないのです。この真理は歴史に残る宗教や哲学をうちたてた予言者や聖人にとっては常に明白なことでした」という所感。そんな会長と出会ったのは忘れもしない、 シルクロードのクルラでだった。それは2006年秋のこと。僕は黄さんや李等の仲間たちと、バイクとジープで砂漠をめぐっていた。“赤い大峡谷”というグランド・キャニオンのような秘境、原子力発電所が建つ荒地、全員がイスラム民族のバザール、石油労働者たちのブームタウン、胡楊の森…その旅にはジルバップを携行し、砂漠や宿でアーロン・ネヴィルを聴いていた。

ジルバップは1980年頃にソニーが開発したラジカセで、当時一世を風靡した。若者はジルバップを持って街や海に行き、青空の下でロックを聴くようになったのだ。

僕はこのラジカセを、北京の中古オーディオ市場で偶然見つけ購入した。それを持ってきたのだった。砂漠で聴くジルバップの音は大音響の迫力で響きわたり、豪勢な気分を味わえた。

砂漠のトレッキングを終え、クルラに戻ると、会長も撮影旅行でやって来ていた。李という共通の友人がいたので、夕食を共にすることになった。

その席に、僕はジルバップを持参しアーロン・ネヴィルの甘い声を流した。

僕らは旅をしながらいつも音楽を聴いているんです、と話しかけると、「そのラジカセはわたしとソニーの井深(大)さんで開発したんです。スピーカーに水ぶっかけたり、砂かけたり、実験をくりかえし、耐久性を追求した。シルクロードでも大丈夫なはずですよ」と会長が言った。

僕は、ビックリしてしまった。まさか、シルクロードでジルバップの生みの親と会うなんて、奇遇も、奇遇。会長も驚きは同じ。「わたしが昔つくったものと、こんなところで出会うなんて」。シルクロードで出会い、しかもジルバップが縁となり、会長と僕は親しくなった。その後は北京で会っては会食したり、東京でも食事をするようになった。

話をするうちに、まずは、絶対余所者が入境できないはずのバインブルグ草原に行っていることを知った。ウィグル自治区はいくつかの州で形成されている。そのうちのひとつに、巴音郭楞蒙古自治州がある。タクラマカン砂漠の東側半分と草原地帯の広域にわたる。草原地帯はバインブルグと呼ばれる、地方名は和静県。

僕がバインブルグの話を初めて聞いたのは2005年の春だった。クルラの町外れに設営されたパオの中、一緒に宴をもったモンゴル人から聞いた。

その時、見るからに力士のように大柄なモンゴル系の男と、馬乳酒のカンパイを銀の盃でくりかえすうちに、場が異様にもりあがり、楽士と踊り子が呼ばれてやって来た。

完全に祝宴である。シルクロードにモンゴル人たちが生き、伝統的な遊牧民の文化が残っているのを知った。それで、“内蒙古自治州”というのか、と腑に落ちた。その宴で、内モンゴル人から聞いた話に、少なからず衝撃をおぼえた。それは――


わたしたちは、祖国に帰還した部族なのです。広くはモンゴル族ですが  部族、支族は多様でした。

わたしたちはトルホト族と呼ばれていました。現在、この自治州の北 西地域、天山山脈南麓の和静県に、3万人のトルホト族が住んでいます。

そこはウィグル自治区の中でも別天地です。まず内モンゴルに次いで   中国第2の草原のバインブルグが広がっています。大きな河が帯のように流れ、植物は多様を極め、学術的にも種の宝庫であることが調査で明らかになっています。

草原のいたるところに水晶のように輝く泉がわき、周囲は神峰と崇められる万年雪を抱いた高峰に恵まれています。

バインブルグとはモンゴル語で「豊かな泉水」という意味です。

わたしたちがこの地に暮らすようになったのは、18世紀の中頃からです。トルホト族の存亡を賭けたロシアからの脱出劇の果ての帰還でした。

わたしたちは元々モンゴル高原にいて、チンギス・ハーンの遠征に出兵し、西に向かいました。その遠征に終わりがきた時、モンゴルに帰る旅を始めたのです。

しかし、ロシア領のフルガ河流域まで来た時、ロシア軍に行く手を阻まれ、トルホト族17万人が閉じこめられてしまったのです。居留地のパオの数は3万2000もありました。

トルホト族はロシア軍によって強制収容の生活を強いられました。わたしたちは、大地を自由に移動して生きる民族です。それが、一カ所に束縛された生活は我慢できるものではありません。

1771年1月5日、この日はトルホト族の歴史上最も輝かしい一日となったのです。この日、族長のウォバシは部族の民を集め、こうみんなに呼びかけたのです。

「われわれは太陽ののぼる土地に戻るのだ!」

それをうけて、部族の叫びは山をも揺るがすほどに響きました。と同時に、17万人の脱出劇がはじまりました。数千のロシア兵を敗退させ、男たちは馬に乗り戦陣を組み、女、老人、子供たちはラクダや馬車に乗り出発しました。

この反乱を知ったロシア皇帝はすぐに数万の軍隊を送り、攻撃してきました。しかし、トルホト族は勇敢に戦いました。ウォバシは優れた軍将でした。女、子供、老人、病人、家畜を守るように軍勢を配置し、2万の騎馬隊をロシア軍と戦わせました。そこでは勝利をおさめたのですが、犠牲も多大でした。

一番の難所は、移動をはじめて2ヶ月目、奥琴峡谷までたどりついた時です。そこにロシアの大軍が待ちかまえていたのです。到底、峡谷を越えることは不可能に思えました

ウォバシはこの時、ラクダの騎兵隊を編成し、自ら先頭に立ち、ロシア軍の中へ真正面から攻撃を仕掛けました。この勢いにロシア軍はひるみ、突破口が切り開かれました。そこに軍勢が攻め込み、峡谷を抜けることができました。

その先も戦いの連続です。厳しい冬の寒さ、飢え、病、と困難は絶えませんでした。しかしウォバシは決してあきらめませんでした。長い旅に疲れはてた女、子供、老人をいたわり、男たちに「勇気をもって前進せよ」と陣頭指揮をとりました。行く手に何万のロシア兵が待ちかまえていようと、トルホト族の意志は強く、一騎当千の戦いをつづけ、遂にトルジ河を渡り、中国へ国境を越えたのです。その時、旅立ちの際に17万いたトルホト族は7万人になってました。

当時、中国は清朝の時代でした。清朝政府はこの帰還を讃え、和静地区をトルホト族の新天地として贈ったのです。

それ以来、230余年間、トルホト族は大草原で遊牧生活を送っています。海抜3000メートルの草原に白鳥湖があります。そこは中国最大の白鳥の生息地となっています。毎年春になって雪が溶け、草原に緑が萌えると、インド、アフリカ南部から何万もの白鳥がやって来ます。

わたしたちはこの白鳥に昔から特別な想いを抱いています。何万もの白鳥を見ると、帰還の旅で生命をおとした先祖の霊がもどってきたように想え、わたしたちは白鳥を「美しい天使」と崇めています。


という話だった。

「わたしは、そこに行きました」と会長は言うのだった。「だけど、土地の人間がここには来てはいけない。すぐに帰れというので、わたしはその言葉に従いました」。

「何か見ましたか?」と僕は訊く。

「何も」

会長は何かを見たのだろうが、教えてくれなかった。

会長の趣味は写真である。70歳になってから中国を撮影するようになった。70代の10年間に、会長は大陸の辺境をめぐった。

「バズーカ砲のようでしょ」と自慢する350ミリのスーパーレンズで大自然を撮りまくった。老いてるヒマなどない。大陸は広大で、まだ未知なる世界はある。

会長は現在80歳。       (『初めての中国人』マーブルブックより)


会長とのシルクロードでの数奇な出会いから、一冊の写真集が生まれた。

スピーカーの工場は中国にも世界中にもある。

自分がどれだけ中国の、主にシルクロードの大自然を愛したか、中国の工場で働く人たちに伝えたいと、文章は中国語をメインにし、他に、それこそ関連企業のアップルのスティーブ・ジョブスはじめ欧米の企業家にも贈ろうと英語版、日本語版も加えた。

一部は中国(北京)、日本(東京)の書店でも発売した。

会長は、写真集が完成した半年後に流星の如く、この世を去っていった。


写真家の半沢克夫に『森羅』を進呈すると、頁をめくり終わってすぐ、「日本一の風景カメラマンだ!」とうなっていた。「だって、無心だろ!」


連日、シルクロード/ウィグル自治区の暴動が伝わってくる。戒厳令下のような情況だ。彼の地は恐怖に支配されている。

会長が愛したシルクロードは、もう遠い日の幻か。

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