森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

自分は古本(単行本)よりも古雑誌(バックナンバー)の方が好きで、古本屋ではいつも古雑誌を漁る。

「コレ面白ソー」と直感で手にした雑誌をめくっていると、自分の仕事を見つけたりして、「けっこういろんな雑誌に原稿書いていたんだなぁ」と改めて知ることになる。

最近も、渋谷と国立の古本屋で3冊の雑誌に自分の仕事を見つけてなつかしく感じた。

そのひとつは純文学系の『小説新潮』の臨時増刊号『大コラム』。100人の作家による1000枚書き下ろしのコラム・マガジンに寄稿しているのを知った。

4頁立ての目次に見る100人の執筆陣には吉行淳之介、山口瞳、深沢七郎らの大家の名もあるが、多くは売り出し中の新人中堅だ。

村上春樹も林真理子もまだ作家デビューして間もないころで、村上さんはその2年程前は千駄ヶ谷のジャズ・バーのマスターで、取材に行ったことがあったし、林さんはいつも仕事で行っていた秋山道男のオフィスの事務員だった。

ほんの20数年前にはまだみんな青山あたりに生棲する“新人”であったが、すぐに各々の宇宙へと飛翔していった。

『大コラム』は、そんなのちの大物たちが新人の時代に気楽に書いた雑文でいっぱいだった。

1984年のことだった。

ジローさんこと久保田二郎も、メインゲストの貫禄で寄稿している。

全体、サブカル色が濃厚だ。それが時代をよくあらわしている。

ぼくは1頁の『大情報』コラムを執筆していた。コレが今読むとゾッとする。

街には「穴」という時空の次元を超えてしまう仕掛けがある。この「穴」によって、あるとき街は最先端のトレンドと脚光を浴びたり、センセーショナルな話題の的になったり、と街論をつづったあと、今後その「穴」の一番の可能性は『井の頭線の電車に乗って走ってゆく体験はまるでトワイライト・ゾーンへのトリップだ』というタイトルで、井の頭線の渋谷駅と神泉駅の間にあるトンネルについて書いていた。

井の頭線の渋谷駅から電車に乗って発つとすぐトンネルに入り、


トンネルを抜けると、なんといいましょうか、暴力的なまでに反都市的で不気味ですらある世界へ飛び込んでしまうのです。(『大コラム』より)


という「この暴力的」「不気味」の表現に、書いた自分が衝撃を受けた。

コレを書いたのは1984年だ。

その13年後、1997年に、渋谷からだとトンネルを抜けた神泉で、例のいまだに謎に包まれた東電OL殺人事件がおこったのだ。

まさに「暴力的」にして「不気味」な。

東電の、その後のおぞましい3・11のその元凶の会社のエリートOL殺害事件がもたらした衝撃の、その現場こそ、トンネルを抜けた場所だった。

偶然そういう結果になったのだろうが、それにしてもなぜ神泉をあげたのか。

そこをなぜ「暴力的」「不気味」と形容したのか。

1984年に書いた時にはそこは人々から忘れられた大都会・東京のちいさな一角だったのだ。

その事件が起きるまで。

『大コラム』とは、この小コラムのことだった。今になってみればね。


次に入手した雑誌は天下の芸能雑誌『月刊明星』だった。

1970年代末から80年代初頭にかけて、この毎月170万部の発行を誇る芸能誌の、ぼくは専属ライターをつとめていた。

発行元の集英社と月々の契約を結び、毎月定額の報酬を得ていた。ぼくに仕事をまわしてくれていたのは鈴木力さんという社員編集者だった。

力さんは、その後、『週刊プレイボーイ』、『イミダス』、集英社新書の編集長をつとめた名編集者だった。

ぼくの仕事は、当時、既存の芸能界をしのぐ勢いで抬頭してきたニュー・ミュージックの担当だった。

彼らは、既製の芸能誌に対しては、いっさい取材拒否の姿勢を貫いていた。

ただ『月刊明星』は週刊誌と違ってスキャンダルなネタは扱わず、基本的にはポップ・カルチャーとしての音楽をマス・メディアのその影響力をもって伝えてゆくという方針だったので、取材に応じてくれた。

何せ、表紙の撮影は篠山紀信、ADは『少年マガジン』の全盛期に数々の斬新なアイデアで世に衝撃を与えた鶴本正三、本文のデザインは何と田名網敬一という、トップ・クリエーターがかためていた。

170万部という今では夢のような発行部数を誇る芸能誌で、毎月ニュー・ミュージック系のアーティストの頁を作っていた。

2年間程、自分は芸能記者になって、人気者を追った。

そのときの仕事を、古本屋で見つけた『月刊明星』に見た。

吉田拓郎の篠島の野外ライブ、全国ツアー中の柳ジョージ…

そのころ、アーティストと共に全国を動きまわっていた。チャーがアイドルの頃だ。サザンがアイドルの頃だ。Y・M・Oも。桑名正博もアイドルの頃だ。MODSも。

J・POPが輝いていた頃だ。

手に入れた『月刊明星』のカバーを飾るのはツイストと石野真子だ。篠山紀信と鶴本正三のART WORKのSUPER POPさ!

ツイストのメンバーだった鮫ちゃんもいる。

鮫ちゃんはよくムッシュのツイッターに書かれているが今はスーパー・ギタリストだ。

たまにRED SHOESで会う。


もう一冊は『POPEYE』だ。70年代の終わりから80年代初めにかけてこの雑誌の仕事をしていた。『POPEYE』は短いコラムを売りにしていたのに、スケボーをテーマに6頁立てのノンフィクションを書いたこともある。

入手したのは1980年9月10日号。

表紙のアメリカン・コミックスに惹かれて手に取って買った。月2回、60万部毎号セールスしていた頃だ。

この号は『POP・EYE』と題し、国際ニュースにはじまり、ファッション、車、本、旅、コンピュータ、コミックス、SF、プロレス、文房具、音楽、ダンス、健康らに関し、130程の小コラムが満載されている。

70年代~80年代、当時のシティ・ボーイはみんなこのPOP-EYE特集でライフ・スタイルのお勉強をしていた。

今でいうブログやツイッターみたいなものかも知れない。

コラムにはひとつひとつ番号がふられている。

その①は『ロールスロイスに金で絵を描く芸術家』。

「いまウィーンで話題の若い芸術家がいる。クラウス・カルマ、25歳」ではじまるコラムは、彼の数奇なプロフィールに触れ、「彼は絵も描くし版画もやる。だが彼を有名にしたのはイベント的な制作だ。(中略)黒地に金のペイントや金箔で仕上げたロールスロイスが、すでに3台ある。正装した2人のインド美人を助手に、長身で青ざめた顔の彼が、黒ずくめの衣裳で、人間の大腿骨を金色に塗った柄のブラシを使う姿は、まさにオカルトのような迫力に満ちている。彼は偏執的に黒と金色を好む」

といったマニアックな情報を当時シティ・ボーイは読んでいた、かどうかはわからないが、超マニアックだ。

この頃の『POPEYE』の主力エディターのひとりが、かの都築響一だ。

で、自分はこの号ではカラー頁を3頁も使って50Sスタイルのコラムを7本も書いている。そのうちのひとつ、コラムNO.112。タイトルは『ドゥーワップやさぐれ、その気になって、グリース香気の艶姿』と7775調できめている。イタリアン50Sファッションについて書いている。


(前略)シャツのプリントは強烈な色のアニマル・プリント。今年はレオパード・プリント(ヒョウ柄)が異常に人気がある。ゼブラ・プリントも、白黒ツートンではなく黒を基調に赤や青の配色。スーツは、エルヴィス風コンポラがとどめ。玉虫、ボックスシルエット、長めのソデ。パンツは、もう、エルヴィス・パンツなる、股上深く、2本のフロントタック、テーパード先細り・折り返し、コレにつきる。ジーンズも、今年はブラックデニムが主流だ。ブルージーンズは退場した。(後略)


ブランド讃歌よりも、ディテールを語っていくのが、コラムの勝負どころだった。興味のない人間にはどうでもいいようなことを。

だけど興味のある人間には、フロントタックの本数、シルエットの型、色らとても重要だ。

こういうコラムを書くのは愉しかったね。

ジャン・ギャバンは人生において重要なことは、「今日のスープの味がどうだったか」というような事だと言っていた、そんな感じだったのだろう。

この頃の『POPEYE』の町文化に対する影響力や驚異的で、その一例をあげると。

友人が仲間とふたりと渋谷に3坪ほどのファッション・ショップをオープンした。まったく不景気だった。8万円の家賃を払うのも3ヶ月目にあやしくなった。

そこに『POPEYE』がやってきて、マッチ箱ぐらいのスペースのコラムを書いてくれた。その号が発売された翌日、店の前に行列が並び、大ヒット!1年後には原宿に2軒目もオープンし、年商5億に!

きっかけは『POPEYE』の小コラムだった。

それはツイッターみたいな、いやそれ以上の影響力を持っていたのだろう。

70年代の終わりから80年代初め、ぼくは集英社の『月刊明星』とマガジンハウスの『POPEYE』をかけもちで仕事をしていた。

そのころはそのふたつの出版社はライバル関係にあり、ふた股で編集の仕事をするのは極秘情報が相手方にもれてしまうので、タブーとされていた。

でも実際両方で仕事をしていて、マガジンハウスの方では上層部が「まずいんじゃないか」と問題視していたと、たいぶ経ってから聞いた。

『月刊明星』170万部、『POPEYE』60万部。

毎月230万人に読まれていると想像すると、どんな小さなコラムも手抜きはできないと思った。

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