プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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ザ・スポイル!
赤坂にリニューアル・オープンするホテルの仕事をうけ、赤坂の現代史を調べているうちに、最大のコンテンツは、かつて「東洋一のナイト・クラブ」と謳われたニューラテンクォーターと認識、オーナーであった山本信太郎氏に直電話し、思うところを伝えると、「喜んで協力いたします」と快諾していただいた。
山本さんは1935年生まれ、現在81歳!
まさに、山本さんは力道山の刺殺事件まですべてを知る生き証人である。
山本さんの著書『東京アンダーナイト/夜の昭和史 ニューラテンクォーター・ストーリー』を原作にマーチン・スコセッシ監督で映画化が進んでるという噂を聞いていたので、真偽を訊くと、ハリウッド映画化は、監督は韓国のジョン・リーに決定、シナリオはすでに『レイン・マン』の脚本家が書き上げた、とおっしゃり、近々契約にハリウッドに渡るらしい。
ニューラテンクォーターに出演したアーティストたちのライブ・レコーディングのテープが残っていて、うち、ルイ・アームストロング、ナット・キング・コール、ジュディー・ロンドン、パティ・ペイジのライブCDが発売されていたので、大好きなナット・キング・コールとサッチモを購入し、オフィスに来ていた早乙女道春と聴くと、昨年ブラサキと共演したジョウエル・ブラウンもステージに立つサッチモ楽団のライブに鳥肌がたつほどの興奮をふたりとも覚えた。
それもあって、ラジオ・シャングリラに出演を依頼すると、山本さんはそれも快諾してくれた。
そして、さらに検索を重ねニューラテンクォーターのことを調べていると、とんでもない写真を見つけた。
ニューラテンクォーターで、ザ・スポイルが公演していたのだ。
スーツを着たファンク・ジャズの先駆、ザ・スポイルは友人の画家・横山忠正がサックス・プレイヤー&リーダーであった。
すぐに横山さんに電話して、ニューラテンクォーター公演の詳細を訊くと、、確かにやった、あのころ汗臭いライブ・ハウスやホールでやるよりキャバレーやナイト・クラブで公演するのが逆にスタイリッシュだったと言う。
スポイル再結成の話しは、今もあると言う。
スポイルの結成は1980年か。
横山さんと電話で話す一週間前に、僕は自分の66のバースデーパーティーをシュールズ・クラブで主催した。
66は、『バッファロー66』の66、あんな世界を忘れずに生きていこうと思い、自分でプレゼンツした。
120名もの知人・友人が来てくれた。
その中に、横山さんもいた。
1979年、立花ハジメの紹介で出会ったころと、横山さんは何にも変わってないが、僕らの仕事を手伝ってくれていた聖 三千さんが亡くなったことを知らされた。
その一言で一気に時間が逆流した。
想えば、横山さんとの仕事は長期にわたった。
はじめ、横山さんはグラフィック・デザイナーを生業としていたので、ユーミンのパンフ、ラッツ&スターの本やブラックキャッツの写真集のアート・ディレクション、雑誌の挿絵、吉田拓郎詩集のカバー・アートなどを依頼していた。
それが80年代の初頭、横山さんはザ・スポイルとしてもアメリカ公演を果たすほど活躍していた。
しばらくの空白期間があり、再会は90年代はじめ、横山さんはグラフィック・デザインの仕事の傍ら、花の絵を描き始めていた。
西麻布のデザイン・オフィス以外に青葉台にアトリエをかまえていた。
僕の冒険心と横山さんの画家魂がいきなりスパークし、またタッグがはじまった。
花田裕之のソロ・デビュー・アルバムのアート・ワークのためにロンドン、アムステルダムに共に旅した。花田氏のビデオ・ブックも共作した。
幻の花を求めてシルクロードの神峰やボルネオのジャングルを探検し、旅の記録と花の絵を制作した。
長崎ハウステンボスに行きグルメのページを制作した。
旅行雑誌に地図を制作してもらった。
石版の印刷機を使い物語じみた特集ページを制作した。
このとき植物に関するアカデミックな原稿を寄せてくれたのが聖さんだった。
いつも会っては、何か、創造性に富んだことをやろうと話し、試作もしていたが、90年代中頃には各々の世界へと別れていった。
僕は小笠原へと流れていった。
また空白が続いた。
2000年に入ると、横山さんから連絡があり、このプロフィール101にも書いたラブボートの仕事を依頼され、ふたりで組んで、全国主要都市を猛暑のなか取材旅行し、香港・上海にも渡った。
それが最後の仕事だったが、メールでは交信していた。
よく絵画作品をメールしてくれた。
なんらかのメディアで組んで仕事をするのは考えられないが、音楽と絵画を融合させたようなアート・ショーを想い浮かべている。
というのも、ザ・スポイルがニューラテンクォーターのステージに立った事実を知り、そのときの録音テープが残されている可能性があるからだ。
横山さんの人柄はいつも穏やかだが、創作・表現に対しては果敢なとこがあり、 多分、そこに惹かれているのだろう。
昔、横山さんが石版で作ってくれた名刺