森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

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映画監督の豊田利晃が頻繁に小笠原に通っている。

小笠原を舞台にした映像作品を撮影しているようだ。

その映像の一部を昨年末、渋谷のシアターで見た。

中村達也率いるツインテイルのライブと映像の融合したステージだった。

タイトルは【PLANETIST vs BABYLON】

PLANETISTは、ぼくが1999年ころサブカル文芸誌『リトルモア』に創刊から休刊まで連載した『PLANETIST NEVER DIES』から引用している。

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小説は、世界各地が舞台になっているが、主たるところは小笠原だ。

そこに暮らすシャーマンと主人公がカスタネダの『ドンファンの教え』のような交流をするドラマを、実体験を元に書いた。

シャーマンのモデルは、このWebでもおなじみの宮川典継だ。

昨年夏、豊田が初めて小笠原に行くにあたり、誰か現地のガイドを紹介して欲しいと連絡があり、典継を紹介した。

ふたりは意気投合し、豊田は二週間の滞在予定を一ヶ月に延長し、その間、小説に描いた異界を典継のナビゲーションで巡るうちに、何か、大いなる啓示を受けたのだろう、帰京し、倉庫から『リトルモア』の全バックナンバーを引っ張り出し、その小説を再読したようだ。

元々、豊田とは、ぼくが彼の『青い春』を日本の青春映画史上最高の作品と評価していたこともあり、『リトルモア』で対談もし、彼は彼でぼくの小説の映画化を一度は企画したこともあり、深いつながりはあった。

しかし、豊田は一身上のスキャンダルにより映画界を追放され、長いブランクはあったものの、最近では『クロウズ4』で見事にカンバックを果たし、新たな軌道を求め小笠原に渡った。

それは、念願の旅だった。

ぼくが初めて小笠原に渡ったのは、1996年、この国は神戸の震災、オウムのサリン無差別テロ、青少年の凶悪犯罪、就職氷河期など、世紀末のバビロンに突入した時代だった。

その閉塞する社会から脱出するために小笠原で映像作品『エデン』の制作を開始した。

典継と出会い、撮影のサポートを要請した。

そのころ、突然、PLANETISTというキーワードが閃き、中山泰のCGアートとコラボし一般誌で、そのタイトルを掲げた人生相談の連載もはじめた。

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映像制作のために頻繁に小笠原に通い、典継とのコミュニケーションを深めるうちに、あらたな世界観、自然観、アート観が芽生えていき、PLANETISTを主人公にした一大冒険叙事詩の創作を思いたった。

デビュー作『原宿ゴールドラッシュ』に次ぐ、それは二作目になるはずの長編小説だったが、連載誌休刊により中断してしまった。

以後、小笠原には別の形で何度も渡り、いくつもの仕事を形にしながら、その集大成として典継もフィーチャーした『ドロップアウトのえらいひと~島に渡る』を上梓した。

その後は、このWebで典継との共作は続行した。

中断した小説を完成させようと、何度か、トライしたが、自分のなかでは過去のものになっていた。

それが、小笠原に渡った豊田がインターネット上に偶然PLANETISTのキーワードを発見した。

それは2008年、オーストラリアで行われた起業家を対象にしたダライ・ラマの講演録の中にあった。

そのメールが典継から届いた。

(内容はダライ・ラマ、プラネティストで検索すれば読める)

それに先駆けること10年ほどまえに、PLANETISTは閃いていた。

急に、その言葉が復活した。

豊田も、その映像化を小笠原ロケで遂行する決意をしていた。

豊田は帰京し、小説を再読した。


小説は未完のままだが、豊田と典継があらたなPLANETISTのドラマを創造しはじめた。

小笠原から持ちかえった映像が豊田の代表作『ポルノスター』の舞台となったバビロン渋谷で初公開された。

それにはツインテイルも参入していた。

豊田ともメンバーの中村達也、ヤマジカズヒデとも、公演後の楽屋で再会した。

小説の中に導かれたような夜だった。

確かに、そんなシーンを書くつもりだった。


閃きにはじまるドラマがある。

その閃きは未来からやってくる。

ダライ・ラマさえ、登場する。


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