森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

下北沢の〈フリーファクトリー〉でボブ・マーリーの孫娘ドニーシャ・プレンデガストに会った。

彼女は現在、ラスタファリの伝導者として活動している。5年前より、エチオピア、南アフリカ、インド、イスラエル、カリブの島々を旅し、ラスタファリ運動のルーツを探るドキュメンタリー映画『Rasta,A soul’s Journey(ラスタ,魂の旅)』を制作した。

今回の来日は3・11の被災地を訪ね支援活動を行うことと、ボブ・マーリー・インタビュー集『RASTA TIME』(キャシー・アーリン・ソコル著/A-WORKS)刊行記念パーティー&会見に出席するのが目的だった。

パーティーと会見が、下北沢の〈フリーファクトリー〉で開催された。それに招待されて訪ねていった。

ドニーシャ・プレンデガストは、会見で、いまこそGET UP! STAND UP!たちあがって人間としての権利を勝ちとれと強く訴えた。しかし、その戦いは武器をもってするのではなく、想像力をはたらかせなさい、と訴える。

少女らしからぬ、そのトーク・パフォーマンスに来場者たちは万雷の拍手を送った。

主催者が彼女を紹介してくれ、アイサツを交わし、ハグした。

この夜のことは、自分の人生において、何か特別な意味をもつように感じた。

パーティー会場の騒めきの中で、自分がボブ・マーリーと出会い、心酔し、自分の生き方が大きく影響をうけた70年代へとタイム・トリップしていた。

ボブ・マーリーのレゲエと出会った頃、僕は『FORLIFE MAGAZINE』という音楽誌の編集長をつとめていた。

ADは田名網敬一氏だった。

そのときぼくは20代の半ば。編集経験の浅い自分には、その仕事はかなりのプレッシャーを感じていたが、日々は充実していた。

その雑誌で、ぼくはペンネームを使って、ボブ・マーリーのことを書いた。ロスに取材旅行に行ったとき、アメリカでボブ・マーリーが大ブレイクしている状況を見て、大きく取りあげようと思い、ペンをとって書いたのだった。

それがぼくが初めて書いた長い音楽論だった。

そのときの想いが、ずっとぼくの中で消えることなく、30年近くもつづいていたので、スピリチュアルな面では最も強くボブ・マーリーの意志を継承する孫娘とめぐり会い、ハグすることになったのだと思う。

ぼくはラスタではないが、そのメッセージは「金や時間に追われる生活から魂を解放せよ!」ということだと思う。

あのリズムが、そのことを訴えている。

久しぶりに『FORLIFE MAGAZINE』をダンボール箱から見つけだし、ボブ・マーリーの記事を読んでみた。

ちなみに、去年亡くなったうちの父親は、82歳で、甥っ子がジャマイカから買って帰ったボブ・マーリーのCDを聴き、「いい調子だ!」とのりまくっていたという。3世代でボブ・マーリー!

ジョン・レノンの予言は的中した。

「今ぼくが一番興味を持っているのは、ジャマイカのミュージック・レゲエさ。1970年代のロック・ミュージシャンをレゲエは根本的に揺るがせる可能性を持っている」

今から4~5年前のメロディ・メーカー誌でのこの発言が、見事に今のロック・ミュージックをとらえる真実になった。

初めてエリック・クラプトンの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を聞いた時、鮮烈な印象を受けたものだ。「11PM」を何げなく見ていた時だった。番組は「アメリカ特集」らしく、画面にはアメリカのハイウェイを走る車のシーンが流れていた。そのシーンのバックに独特なリズムのロックが流れてきた。誰が歌っているかも、何という曲なのかもわからなかった。今までにない、新しい何かを感じとった。

「スゲエいい曲だな。ジーンとくるね」その曲が終わり、もう一度聞きたいな、と未練たらしく思っていたら、ナゼか再びその曲がかかるではないか。テロップが出た。

「今の曲はエリック・クラプトンの“アイ・ショット・ザ・シェリフ”です。視聴者の方のリクエストにより、もう一度おかけ致します」という内容のものだった。ぼくと同じように感じた人が、ブラウン管のこちら側にもすごくいたのだろう。どれくらいのリクエストがあったのかは知る由もないが、TVで二度もかけるところにまでいったからには、大変な数であったに違いない。

その日から数週間後には、この曲が大ヒット曲となり、街中のジューク・ボックスや有線から、ひんぱんに流れるようになった。

この曲がレゲエだった。多分ここ最近では一番のヒットとなったレゲエ・ナンバーであるはずだ。ここ最近と断り書きしたのは、以前にはあったからだ。1968年ビートルズが発表した「オブラ・ディ・オブラ・ダ」がまぎれもなくレゲエだった。

今年の夏アメリカは、この男のことで大騒ぎだった。ロスアンゼルスで手にとったあらゆる音楽雑誌、新聞などが“ボブ・マーリィ”の記事で埋め尽くされていた。スーパー・マーケットのようなレコード店には、この男のレコードが山のように積まれていて、飛ぶように売れていた。

タワー・レコードというロスアンゼルスの一番大きなレコード店に行った時だ。頭にヘアーバンドをし、ランニング・シャツにランニング・パンツ、それにスニーカーといったマラソン・スタイルの黒人がジョギングの途中に立ち寄ったという感じで、山と積まれたボブ・マーリィのレコードの前に立っていた。

ランニング・シャツの背中には、「ボブ・マーリィ&ウェイラーズ」とプリントされてあった。

「ボブ・マーリィ、好きか?」という質問に「ああ、今、彼は最高のミュージシャンだよ」と言って背中を向けると、ボディービルのポーズを作った。

日本の雑誌に原稿を寄稿しているロス在住のT氏も「今はボブ・マーリィが一番人気がある。彼が公演にやって来ると決まると、まるでかつてのビートルズのように、嵐のような感じになってしまうんだ。それほどこっちの連中の彼に対する熱狂ぶりはすごいもんなんだよ。ドゥービーやイーグルスへの人気と質が違うからな。70年代のヒーローという感じさ…」

実際この6月、ニューヨークを皮切りに全米18か所で開かれた彼らのコンサートは、約2か月も前からすべて売り切れ。続いて西ドイツ、デンマーク、オランダ、イギリスでも、彼らは同じく異常人気で迎えられたという。

現在彼は31歳、トレンチタウンというジャマイカの貧民窟で、4人の妻と7人の子供と共に暮らしている。

ところでジャマイカというカリブ海に浮かぶこの小国は、1962年にイギリス連邦統治下から独立したものの、一般民衆の大部分が、植民地時代とほとんど変わらぬゲットーでの生活を強いられている後進国だ。人口2百万のこのジャマイカには60万人を越える失業者が右往左往しており、首都キングストンには、シャンティ・タウンをはじめとして数多くのスラム街がある。

このスラム街では、殺人や強盗など日常茶飯事のこと、現にこのキングストンの町だけで、行方不明になったり失踪したりする人が年間100人は下らないといわれている。

とにかくすごい国であるらしい。そんな環境の中でボブ・マーリィは『政治家からは、決してどんな世話も受けてもならない。ヤツらはきっと死ぬまでおまえを支配しようとするだろう』と叫んでいるらしいんだ。

だから危険人物として、国家からは弾圧を受け、グループは今までに何回も解散に追い込まれていったし、実際メンバーの何人かは、何の理由もなく刑務所に送り込まれ、体制からののしられてきた。

アメリカから帰って来てから、そんなにすごいミュージシャンなら、一度レコードを買ってみようと思いついたのが、西武池袋線の東長崎の商店街を歩いている時だった。さっそく一番新しいアルバム「ラスタマン・バイブレーション」を買った。

聞いてみて意外だった。話に聞いた“過激”のイメージが少しもないのだ。レゲエのリズムは、あくまで心地よく、ボーカルも激しく叫ぶなんてことはなく、実に31歳の成熟した男のセクシーさを感じさせる。どうしてこの音楽が「英国人や中国人の経営するプランテーションで、トウモロコシ畑や葉巻畑で汗水流して働いているジャマイカ人の圧倒的な支持を受け、さらに世界中で熱狂的に騒がれているのだろうか?」とやはり不思議に思えてきてしまった。

歌詞にメッセージがあるとしても、聞く限りにおいては“ウンチャカ、ウンチャカ”というリズムが快く身体をバイブレートする。何か、激しく心をかりたてられるなんてことはない。

ただ、あのエリック・クラプトンの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を聞いた時と同じように胸にジーンとくる。

第二ビートのかわりに第一ビートにアクセントを置いて“ウンチャカ、ウンチャカ”と刻まれる独特のリズムは、8ビートを聞きつづけてきた僕らには、やはり得も言われぬ心地良さを与えてくれる。

その心地良さの中で、何か聞くものを強烈にとらえてしまうのは、きっとまだ植民地時代の貧しさそのままに、殺伐とした生活を送っているジャマイカでは、この“心地良さ”を求めることも、ひとつの闘いだったからなんじゃないだろうか。

レゲエという心地良いリズムの歌にメッセージを、思想をこめ、聞く者に強く訴えかける。とにかく音楽の威力をぼくはあらためて感じさせられている。