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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

竹富島再訪



コンドイ浜に来た。

最後に来たのは、1995年であったか、遠浅の海を歩きながらカセットテーププレーヤーでロキシー・ミュージックを聴いた。

20年ぶりの竹富、見る影もなく開発の魔手が入っているだろうなと予想したとおり、桟橋はコンクリートの要塞と化し、車社会となり、よく見る離島風景に迎えられた。

在沖縄の友人に手配してもらった宿は村はずれのバリ風のコテージであったが、そこには港へと至るアスファルトの道路が貫通していた。携帯の番号にかければ、数分以内でアイランド・タクシーが飛んでくる。

それまで人も入ったことのない野生ゾーンに開発の手が入ったことが一目瞭然であった。島全体がテーマパークと化した。

それでも、コンドイ浜は人がいなかったせいもあって、20年不変の印象であった。

世界のどんな浜とも異なる表情を持ち、20年ぶり、目の前にひろがる海原は記憶に残るイメージを遥かに超える幻想感を極めていた。


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空と浅瀬の珊瑚の海原が溶け合うような、これこそがランボーが憧憬した「永遠」の正体ではないか。

コンドイ浜に立ち、この島で過ごした数々の時間が蘇ってくる。


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はじめは、いつであったか?

その時の旅は雑誌『ターザン』に、劇画の巨匠・山川惣治挿絵という豪華共作で連載した『二十島物語』の第二話に書きのこしていたが、1986年の夏の終わり、時間を作ってはアイランドトリップに繰り出していた。

そのへんの事情は拙著『アイランドトリップノート』に詳しく書いた。

『二十島物語』は、やはり山川さんとの共作という名誉を感じていたのだろうか、すべてではないが頁を切り取りファイルしてあった。


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それを読むと、第一話は「南海の映画館にて」と題し、石垣トリップになっていた。

どうやら、与那国島を目指していたようだ。空路による与那国島行きを断念し、フェリーを利用して離島に渡ろうとしたが、海も大荒れで全便欠航。結局、雨が降り続く4日間、石垣に閉じ込められた。

石垣島には港町に映画館が二軒あった。探し歩き、、


〈そして、ついに映画館が目の前に出現、何とトロピカル・デコが南海の風雨、太陽光線にさらされさびれた外観、ぶったまげた。上映作品は『もっと激しく、もっと強く』、ピンク映画館だ。館名は万世館。二軒目を探した。すぐにその石垣シネマを見つけ、上映作品は『キングコング2』。
館内の装飾はまるでロンドンのミニ・シアターのような壁は緋い布張りだった。
座席は丸坊主の少年たちが半ズボン、Tシャツ、ゴム草履でグレムリンのように座っていて、大騒ぎしている。
島のグレムリン小僧たちはチャチなSF映画を見ようともせず、映写機の投光に競いあって手をかざし、スクリーンは手形の影絵芝居と化した。
そのはしゃぐ少年たちの中心で、見るからに島の姫君といった気品ある顔立ちの美少女がスクリーンをジッと見つめていた。
映画館を出ると、港町は嵐のあとの亜熱帯の夜風が吹いていた。〉


そして二話目で竹富島に初上陸している。嵐も去り、与那国島に発とうとしたが、風が強く飛行機は欠航。港に行き、当初予定もしていず、何の情報もない竹富島への高速艇にのりこんだ。


〈二十島物語の第2島となった竹富島は、上陸した瞬間、海の精気が足元からはいあがってくるようなパワーを放っていた。
のちに知ることとなったのだが、普通島は概ね海底火山の爆発により海上に陸地が出現し形成される。
しかし、竹富島の陸地は面積6平方キロメートルの珊瑚礁なのだ。島を取り囲む珊瑚は石垣にも使われる石珊瑚で、これが年に5センチづつ成長する。それが2億3千万年かけて形成されたのが竹富島なのだ。
しかも、その珊瑚島に暮らしている人たちは百歳を超す長寿の老人たちを中心にした約340人の村人。そこは海面に浮上してしまった竜宮城だ。
1964年に、この島を訪れたバーナード・リーチは、「蝶といい石といい、人間といい、すべてが一つになっているようだ。人間の顔に鼻や口、眉などがついているが、その一つも欠かせないのと同じように自然と生活がしっかり結びついている」と印象した。
集落の地面は白砂、珊瑚の石垣が迷路のように八方に巡らされ、民家はそれ自体が芸術作品のように美しく、アイヤルという浜に出ると、砂は星型をしていた。〉


1964年にはバーナード・リーチが語るように理想郷だったのだろう。生活はいまより貧しく、訪れる旅行者もいず、竹富島は人知れず南海上に浮かんでいたのだろうが、人の暮らしと自然の調和は完璧だったのだろう。

初上陸した時も、リーチの印象に近い感動は覚えた。

だから時間を作っては石垣に直行便で入り、竹富島へ船で渡った。

いろんな人を案内した。

ローリングストーンズ・ファミリーの一員でロン・ウッドのレコーティング・エンジニアであったマーチン、仕事ではあったが山川惣治と植田正治。植田さんが写真を撮り、山川さんが絵を描き、古波蔵保好氏が文を書いた、それはそれは世紀の共作であった。

山川さんは、竹富島の美しい海を見て、「江ノ島の海も70年前はこんなに綺麗だった」と感慨深げにおっしゃった。

朋友の画家・福田勝も夫人と息子共々案内し、親子による絵日記を書いてもらった。

スタイリストのキタやんこと北村勝彦氏も。村外れにオカマバーがあり、キタやんと行くと、「絶対、秘密よ」と口封じされ、三島由紀夫の遺族により公開を法的に禁じられた『MISHIMA』をビデオで見せてもらった。

竹富島は自分をものすごく傾倒させる魅力にあふれ、94年には、竹富島を愛した知人が遺したある重要な宝物を美術品梱包し島に送り、日本最南端の寺・喜宝院に預かっていただいた。


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環境はもはやバーナード・ショーの見た楽園像のカケラもなく、リゾート・アイランドに変わり果てたが、20年ぶりに訪ねたコンドイ浜は宇宙の彼方にひそむ海であった。

その海に山川さんや植田さん古波蔵さんの魂が浮遊している。

コンドイ浜を訪ねる旅は自分だけの聖地巡礼となった。








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