プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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毎月沖縄に行っている。仕事で行くのだが、ほぼ終日泡盛を飲むことになる。
仕事の相手は沖縄を代表する実業家で、ぼくと同年令。本島の近くと、石垣の近くに島を所有し、先月は本島近くの津堅島に渡り、なんと、ビーチをもらった。MORINAGA BEACHと称することになった。
そのうち小屋でも建てよう。
沖縄に初めて行ったのは、いつだったか? 78年か。丘の上のホテルに泊まった記憶がある。年上のキャットウーマンみたいな女性といっしょだった。まだ黒人兵でにぎわっていたコザのゲート・ストリートに毎晩でかけていったはずだが、ほとんど記憶にない。
その後も、沖縄本島へは旅していたが、いつからか竹富島の魅力に取り憑かれ、通うようになった。
竹富島にはシャーマン系の上勢頭家がいて、ある夜、古い民家で神おろしの儀をとりおこなってくれた。その体験がその後の自分にどう霊的に作用しているのか、よくわからない。
沖縄本島に関して興味をもったのは、そういった神がかり的世界ではなく、ひとつは戦後、米軍占領下にもたらされた1950年代のアメリカン・カルチャーだった。
宮本亜門は、60年代の沖縄を舞台に『BEAT』を監督したとき、「60年代の沖縄は20世紀においてもっともエキサイティングだった」とコメントしていたが、1950年代の沖縄には本土の人間が知ることのなかったスーパー・モダン・カルチャーが存在していた。その一部がいまも現役のまま旧コザ市、現沖縄市に残されているのを知って、『Modern Journey in OKINAWA』という小特集を制作した。
沖縄市久保田にいまもあるプラザ・ハウス・ショッピング・センターが1950年代初頭の創業期の写真を大量に所有していた。
野っ原に一軒建つショッピング・センター。駐車場にひしめくアメ車。一枚のモノクロ写真に見せる世界は、アメリカそのものだ。
ショッピング・センターで当時働いていた沖縄人女性のチイコさんに話しを訊いた。
――ここは田畑でしたが、その中にショッピング・センターが生まれたんです。というのも、ここにまずアメリカ人の住宅が建ちはじめ、それにつれて、お店や会社が増えていった。そのほとんどがアメリカ人や中国人、インド人など外国人の経営です。ほとんどのアメリカのエアラインのオフィスが立ち並び、インド人経営の百貨店もありました。他にはバンク・オブ・アメリカもあったし、ドライブ・イン・バーもハンバーガー・ショップもありました。コザの中では一番栄えていたんです。
当時のショッピング・センターの様子をチイコさんは述憶する。
――売り場には海外ブランド品がすべて揃っていました。ジャンセンもシャネルもディオールもリーヴァイスもありました。レコード・ショップにはアメリカ直輸入の最新盤が何百枚と売られていたし、ジュークボックスが何台もありました。最新のステレオもあったし、タイプライターもレミントンや家電のGEの代理業もやっていたので、50年代のアメリカ商品がたくさん入ってきました。当時の日本人が欲しがったものはすべて揃っていました。
1950年に朝鮮半島で勃発した朝鮮動乱。あわや第3次世界大戦か、という戦慄が世界に走ったが、冷戦構造という終結を迎えた。
アメリカは帝国主義を掲げ、やがてベトナムに侵攻し、戦争をおっぱじめたが、50年代にはまだ楽天的に、繁栄と平和を享受していた。
アメリカが本当に佳き時代といえるのは、50年代だけなのかも知れない。
いまも、微かに、その匂いが街に残る。






