森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

1970年代終わり、NHKに全国津々浦々に電波をとばすFMが開局、毎週月曜から金曜までの夜10時20分から11時までのゴールデン・タイムに『サウンド・ストリート』という音楽番組が編成され、月曜日松任谷正隆、火曜日森永博志、水曜日甲斐よしひろ、木・金曜日渋谷陽一がDJをつとめ2年ほどつづいた。

これがぼくのDJ事始めだ。選曲はすべて自分でした。レコードも自前。ギャラはレコード代で消えた。ラジオはレコード会社との癒着がひどくDJが主体的に選曲できない構造になっていた。かつてアメリカでは50年代のロックンロール台頭期にラジオは、その新しい若者音楽の普及に最大の貢献をし、アラン・フリードというスターDJも誕生したが、アラン・フリードは「ペイオラ」といわれた裏で金をもらって同じ曲を何度も流す汚職事件により転落、アル中になり身を滅ぼした。

いまはラジオは聴かない。というか、家にラジオがない。ただし超マニアックなジャズレディオコム・スムーズジャズだけはiPadでテキスト打つときのBGMに聴いている。そうすると、音が音にのるように、言葉が言葉にのり思わぬフレーズがとびだしてくる。

いつからかDJといったらクラブDJのことをいい、ラジオDJは過去のものになった。もうDJとはいわない。喋り主体だからパーソナリティーという。

クラブDJは90年代に没頭した。先日も葛飾方面で朋友〈生意気〉のヤダちゃんと飲んだとき、「森永さんが三宿のクラブでDJやってる写真がでてきた」といわれれ、そこは自分がプロデュースしたクラブだったと思い出した。他に〈バー青山〉〈イエロー〉〈アムリタ〉〈キャバレー〉〈チェルシー・ホテル〉〈北青山ホテル〉と、いろんなとこでやった。

ジム・モリスンの『アメリカン・プレイヤー』やクリーデンスの『スージーQ』、ジミヘンの『ストーン・フリー』などを流すと若いDJが「これ、なんですか?!」と聞きにきた。

気分がのると、いまでもたまにDJをやる。自分のイベントでレギュラーDJ陣に欠員があると、代打もつとめる。だけど、選曲はラジオDJ時代の癖がついているので、事前にすます。自宅で時間をかけ選曲し、流れを決める。その作業は絵を描くみたく楽しい。実際、曲やアーティスト名をグラフィティーみたいに紙に描いてイメージしていく。先日も第三土曜日でDJをやったとき、ストリート・スライダーズのナンバーを流したら、プロDJの川戸君に「スライダーズ流すDJなんてはじめてですよ」と言われた。自分の好きな曲を大音量で聴くのは快感だ。

でも、人によっては・・・

レッドシューズでこんなことがあった。自分がDJをやってると、ジョー・ストラマー追悼イベントで来日していたクラッシュ関係者の英国人たちがやってきた。それなりにみんなエンジョイしていたが、ポール・マッカートニーのナンバーを流したら、ストラマーのマネジャーが飛んできて「たのむ、ポールだけは流すな。医者に聴くなってとめられてるんだ」と真剣な顔して言う。そこまで言われたらやめたよ。

たまたま選曲表が一枚手元に残っていた。

なにやらアムスのカフェのメニューみたいだな。

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