森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

@バー〈ジジーノ〉。場所:白金。主人:トミー。2014年3月某日。

ビル6階の窓辺からは東京タワーが赤々とそびえる夜景が一望できる。満席だった客がひけたあと、トミーと雑談していた。店内にはずっとスムーズ・ジャズが流れている。サーフィンの話しをしていた。

そこで、トミーと湘南のタイチャンこと横山泰介が友人であると知って少なからず驚いた。それも、親友だという。マジッ!?


トミーと初めて会ったのは1979年か、彼がオーナーだった〈トミーズ・バー〉を訪ねた時だった。そのバーはまだ普通に霞町といっていた西麻布の交差点そばにあった。

それ以来の関係だ。

一方、タイチャンとの付き合いはさらに古く、1972年か、3年か。出会いはカローラ・スプリンターのTVCFで共演したスタジオだった。撮影は沢渡朔、音楽はミッキー・カーチス。

そのときタイチャンとは会話した記憶もなく、仕事でいっとき時間を共有したというだけだった。それが、7年ほど経った1979年、バリ島で偶然再会した。クタのレストランで、タイチャンから声をかけられ、誰だがわからなかったが、TVCFで共演したことを告げられ、赤道直下の劇的再会に感慨ひとしお。

タイチャンがサーファーであり、カメラマンであることを知った。

「これも、奇縁だから、何か一緒に仕事しましょう」と約束してバリでお互いの電話番号を交換し別れた。

それから、一年後、『ブルータス』で「島へ、逃げる」という特集を組むことになった。

片岡義男が巻頭に島論を書き、都築響一がハワイ、村崎健太がフィージー、「フィリピンに行かないか」と編集長のジローさんに言われ、ぼくがフィリピンのほとんど未開の島、パラワンとミンダナオの担当になった。

チャンス到来、写真をタイチャンにたのむと、「フィリピン、いいね。波、探そう!」と大ノリ、ふたりでフィリピン取材に行くことになった。

そのころ、フィリピン通いをしている友人がいて、取材の話しをすると、ミンダナオは近くに潜伏するイスラム系のゲリラ、モロ解放戦線と政府軍の激戦地で、かなり危険だと言う。だからマニラに元警察官で、いまは私立の護衛業をしている知人がいるから、彼を雇うといい、と助言され、連絡先を教えてくれた。「そいつ、いつも、拳銃、携帯してるよ」とこともなげに彼はいった。

バラワンでは、過去何度も白人の探検隊が踏み込んだという〈地底の川〉に入域した。その入り口で小舟に乗るぼくをタイチャンが撮ってくれた。これが、なかなか気分充溢のショットだったので、特集の巻頭につかった。とんでもない秘境なのに、ぼくはクリームソーダのモダン・アート柄のシャツ・ルックで、どこに行こうが、街場にいる気分なのだった。

タイチャンは、撮影とは別に、新しいサーフ・スポットを探そうと血まなこだった。空からも、海辺でも。

パラワンからマニラにもどり、護衛を雇った。

拳銃を携帯した護衛とミンダナオの港町サンボアンガに渡った。

近くの無人島に渡ると、機関銃を設置した見張り台があり、兵隊がいた。

島を舟でひとまわりするとき、ゲリラの奇襲にそなえ兵隊が機関銃を持って同乗した。ゲリラは海賊と呼ばれていた。護衛をモデルに撮影した。彼にもクリソのシャツを着せた。

サンボアンガは、しょっちゅうゲリラとの交戦があり、夜は外出禁止令がしかれていた。よく、夜中に銃声が聴こえた。

結局、タイチャンは波を見つけることはできなかったが、20年後、またいっしょに島に取材に行った。今度は格別の波があった。

旅先は種子島だった。ロケット打ち上げの日、発射台の手前のサーフ・スポットに地元のサーファーを集め、発射されたロケットとサーファーという劇的なショットをタイチャンに撮ってもらった。

そのころ、タイチャンはキムタクや坂口憲二から師とあがめられるサーフィン・フォトグラファーになっていた。もう、その世界では大御所だ。


そのタイチャンとトミーは親友であると知った。いま振り返ってみれば、トミーと西麻布の伝説のDJバーで出会ったときに、タイチャンとバリで再会している。それも、めぐりあわせだったのか。


空海の言う密教の教えのひとつは「すべてはつながっている」。

最近、密教に惹かれる。


タイチャンとの旅の思い出からさめると同時に東京タワーの照明は消え、近くの八百屋が野菜を店頭に並べはじめた。

帰宅したら味噌汁を作ろうと思い、八百屋で大根を買って、地下鉄の始発で帰る車中、護衛のフィリピン人の名は何だったけかな? 思い出そうとしても、でてこなかった。ルディ? 違うな。マディ? でもないな・・・


ロスや南米や韓国などで銃口を向けられたことは何度もあったが、拳銃携帯の護衛を雇っての取材なんて、そのとき一度だけだ。


フィリピンに行っているとき、ぼくがミンダナオで海賊に誘拐されて、消息不明になってると、街場で風聞が流れたそうだ。

『ブルータス』の表紙の売り文句は「怖くないフィリピン」だった。

ぼくがつけたわけではない。

これは、ないね。

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