プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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ボス!逝く。
ボスといえばブルーハーブのボスがリアルだ。
缶コーヒーじゃない。
リアルなボスは、僕らの世界にもいた。
六本木フラミンゴ・バーのボスである。
2016年1月末にボスは急死した。
死因は心筋梗塞という。
オフィスで倒れ絶命した。
ボスと最後にあったのは、いつのことか? 記憶にない。
彼がオーナーで、娘のマイちゃんがママだった西麻布バルズ・バーであったか、何かのパーティーであったか。
最初の出会いは映画をビデオで再生するかのごとく覚えている。
1970年代終わりから、西麻布に堀切ミロと暮らしていた。
ある夜、夜道を歩いてると、暗がりのなかにバルズ・バーのネオンが灯っていた。
まだ西麻布にはトミーズ・バーと328とレッド・シューズしか遊び場がないころだ。
そこにバルズが加わった。
ネオンを見て、好みの空気を直感し、店にはいると、ボスが筋肉質な肉体にタンクトップ一枚、腕にタトゥーをいれた裸をさらし、カウンターの中でシェーカーをふっていた。
西麻布らしからぬマッチョな印象だったが、カウンター席に座って、ボスと会話すると、一瞬でなじんだ。
遊び好きの同族とわかった。
翌日、マービン・ゲイ&ダイアナ・ロスのデュエットのレコードを持参しかけてもらった。
翌日も行くと、ボスはそのレコードをターンテーブルにのせ、僕のフェイバリット・ソングである『マイ・ミステイク』に針を落とし、以後、行けば、かならず、その曲を流してくれた。
バルズはいっとき坂本龍一のサロンと化した。
毎晩、坂本は店に現れ、霞クラブというサークルの若い子たちと乱痴気騒ぎに興じていた。
グラミー賞のトロフィーはバルズの棚に飾られ、そのままになっている。
バルズは西麻布の名店となり、次にボスは六本木に進出した。
かつて原宿にあった山崎眞行のロック・スナック、シンガポールナイトの店名を山崎さんの許可のもと譲りうけ、矢沢永吉の歌をカバーするバンドやR&B、ロックンロールのバンドのライブを毎晩くりひろげた。
そのバンドのひとつが横山剣のバンドだった。
ここも大当たりした。
そのころ、僕は事務所を近くに構えていて、夜になると、フラミンゴの空気孔からもれてくるロックンロールが事務所まで届き、その音に誘われて、毎晩通った。
その後、フラミンゴバーというアメリカンスタイルのバーになったとき、ローラースケートをはいて、お運びをしていたのがチャラだった。
ボスやチャラたちと富士五湖へキャンプに行った。
ボスはキャンプが大好きで、自ら焼肉を仕込んで、焼いてくれた。
ボスは花火も好きで、毎年夏には屋形船をチャーターし、荒川まで見物にくりだした。
それはそれは豪勢な船遊びだった。
ボスとは親密になったが、仕事の付き合いはなく、遊び仲間だった。
それが、どういうわけか、ボスが新たな場所に新たなフラミンゴバーをオープンするとき、名誉顧問についてくれと頼まれて承諾した。
そこは六本木初のバーレスクバーだった。
ステージに立つのは外人ダンサーたち、フロアーで働く女たちは日本人、アメリカ人、イギリス人、スペイン人、イスラエル人、、、と国際的だった。
その多くが世界を旅する若いヒッピーだった。
客も多彩だった。
ミック・ジャガーもやってきて、ある夜、ボスの誕生日、ミックはボスの耳元にあの唇を寄せ「ハッピー・バースデー」と囁いた。
そのころは布袋寅泰と仕事をし毎日のようにあっていたので、ふたりでよく遊びに行った。
僕がインタビューするという布袋のテレビ特番の撮影場所にフラミンゴを借りたり、布袋はフラミンゴからインスパイアされ曲も作った。
ステージにフラミンゴの外人ダンサーが駆り出されたこともあった。
布袋は共演したブライアン・セッツァーや外タレを連れて行った。
フラミンゴは国際的な名店となっていった。
ボスは勢いのある生き方の見本のような男になっていき、僕はそのライフストーリーを『ドロップアウトのえらいひと』で紹介した。
『ブルータス』では、エロティックなショーを取り上げ、『日本版エスクァイア』ではボスのキャンプ好きを、本人に出演してもらいページを編集した。
ボスとは本当によく遊んだ。
お互いにリスペクトの感情を抱き、ソウル・ブラザースといってもよい関係になった。
思い出は数知れず、思い出すと、泣ける。
ボスこと渡部真一は、1980年より2016年まで、西麻布・六本木に生きた好漢であった。
人を楽しませることにすべてをかけた街場のキングだった。
心から冥福を祈る。
写真右がボス@秋川渓谷