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TACHIKAWA “MICK” NAOKI
&
MORINAGA “MACKENZIE” HIROSHI'S
CLUB SHANGRILA 2011
その日、マーチン・スコセッシ監督『GEORGE HARRISON / LIVING IN THE MATERIAL WORLD』の試写会場でぼくらは会って、3時間50分の大作ドキュメンタリーを観た。
試写が終わり、飯田橋から地下鉄で麻布十番に出た。秋も深まっていたが、街は夏めいた幽玄な空気感に包まれていた。
10年程前、いっしょに散策した北京の街の夕暮れ時を想い出していた。
「歩いてこう」と、商店街からヒルズの坂へ閑散とした街路を西麻布に向かった。
ミックのオフィスに寄り、ミックは用事をすませた。また街路にでて、六本木通りを渡り、路地に入った。長い夜がはじまった。
M’ (森永)エリック・クラプトンも証言していたけど、ジョージ・ハリスンのギター・プレイはテクニックじゃ語れないよさがあったんですね。
ビートルズはプレイヤーとしてすごかったんですね。
M (立川)リンゴ・スターもそうだよ。7拍子を叩けたんだ。
M’バングラディッシュの救援コンサートのときは、ジム・ケルトナーとダブル・ドラムスですもんね。
Mリンゴ・スター、見直したよ。ジム・ケルトナーにぜんぜんひけをとってない。
M’そうそう。ジム・ケルトナーがむしろサブの印象だった。
Mリンゴ・スターがうまいんで、ビートルズのメンバーにいれたんだから。
M’いろいろ証言者が登場したけど、一番おかしかったのは。
Mフィル・スペクター!
M’女装してた。
Mだからゲイだったんだよ。
M’カミングアウトした。
Mゲイの人ってさ、年とってくると本性隠さなくなるじゃない。フィル・スペクター、メイクして、口紅ぬってただろ。
M’時の流れを感じるな。『イージー・ライダー』じゃ、オープニングでプッシャーの役ででてきて。
Mあのとき、ぼくらはコカインっていったい何だかわからなくてね。1970年だもの。初めてぼくらがスクリーンにコカイン見たのが『イージー・ライダー』だった。
M’ホントですね。でも今日の映画で、ビートルズっていったら、歴史的なスターじゃないですか。なのに証言者が平気でドラッグの話してて、日本じゃありえない。
M文化だね、文化。
M’あと、ジョージ・ハリスンのインド哲学への傾倒。ラヴィ・シャンカールとかパクティヴェーダンとか、要するに物質文明からいかに自由になるか、道を求めるでしょ。今だとスティーブ・ジョブズですよ。ふたりは似たところある。共に天折した運命も。
Mある、ある。
M’アップルだしね。ジョブズは語ってないけど、ジョージへの想いあったのかもしれないですね。
Mインドが大きいね。ジョージがインドにいるとき心の底からうれしそうじゃない。
M’ビートルズから解放されて、楽しそうに道を歩いてましたよね。
Mだからああいう映像見ると、いま世界は情報が画一化、均一化されてしまって、人が自由になれるところはなくなってきたけど、ジョージがインドに行ってるころは、ものすごく得れるものはあったんだよ。
M’あの映画はスコセッシの最新作でしょ。
M2011年のアメリカ映画、去年から制作してたんだよ。
M’ということは、この激動の時代に、マーチン・スコセッシはいまジョージ・ハリスンの存在価値を再評価する気持があったっていうこと?
Mスコセッシはジョージのことをすごく好きだったんじゃないかね。
M’意外。
Mじゃなかったら、スコセッシはジョージはあんなにスピリチュアルな人間だったというのを伝えたかったのかもしれない。だとしたら、死に近づいていく過程をていねいにとらえなきゃならない。それで3時間50分の大作になったってことだね。
M’そうか。それでタイトルが『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』になった。
Mアルバム・タイトルをそのままもってきた。
M’60年代から70年代にジョージがインド哲学に傾倒していったことは、理解しにくいことはあった?あの時代に。
Mいや、ほらビートの人たちが東洋に関心を示していったことと、ジョージのそれはかぶってるなと思えたからね、ぼくにしてみればそれほど特殊なことと思えなかった。ただアイドルだったポップ・スターとしてはすごいとこいってるなと思ってた。
M’ビートの流れからすれば、その後、ヒッピーだからね。自然か。
Mでも今日映画見て初めて知った事実があったんだよ。カリフォルニアでジョージがラヴィにシタール教わってて、でも、ある日、ラヴィに「自分のルーツを探せ」って言われて。
M’あのシーンはすごい。ルーツはプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』だって。
Mバイクで走ってるとき聴いたっていう。それでラヴィと別れてニューヨークに行くだろ。そのときにシタールひくのやめちゃったっていう。ずっとジョージはシタールひいてたのかと思ってたから。ビックリしたよ。
M’ものすごい瞬間ですね。ジョージだけでなく、ロックが迷走してたときですね。
Mインドでブレたんだよ。
M’ストーンズもインド行って、タンジールに行って。
Mでも原点に戻っていった。キース・リチャーズも原点は『ハート・ブレイク・ホテル』だよ。あの本、面白かったな。キースの自伝の『LIFE』。
M’めちゃくちゃ面白い。ディランのクロニクルの『自伝』もよかったけど、キースの方が面白いかな。
Mうん。面白い。
M’マジに、『LIFE』読み終わって、ピカソよりキースだなと思った。やっぱりアーティストとしてピカソは20世紀、トップに立ってた。その自由さとか、アウトサイダーさで。でも、キースはそれを超えてるな。個人的な感想ですけど。
Mそれと関係あるけど、『LIFE』読んで、最近、トム・ウエイツの『レイン・ドッグ』をアナログ盤で聴いたりして、やっぱりめちゃくちゃカッコいいわけよ。そのカッコよさにはいろんな要素があるけど、根底にあるのはロックだよね。
M’今日映画見てわかったけど、ジョージ・ハリスンは哲学者ですよね。ギタリストだし、シンガー・ソング・ライターだし、アーティストだし、でも哲学者ですよね。
M今日映画見て、ジョージが1969年に、イギリスの代表的な庭園を持つ大邸宅を手に入れただろ。それで、庭づくりに没頭してたってエピソード。
M’息子の証言に、真夜中に月光の下で庭をいじってたって。
Mその話。ジョージの本当の姿がそれかもな。そういう意味ではジョンはすごく俗の人だったかもな。
M’今日映画見終わったとき、何なのかよくわからなかったけど、時間がたってくると、ものすごく奇妙な伝記映画だなってわかってきたの。決して理解できることじゃないんだけどね。
Mジョージは現代のビートニクかもな。
M’でね、深沢七郎が言ってた言葉思い出したのね。
Mあ、そう。何?
M’深沢七郎は生涯定まった職業にはつかなかったと。
Mギターもひいてたしね。
M’それでいってるの。「そのときのそのときに自分の考えも行動も変化する。そんな自由が好きだった。職業もそうだった。変わる瞬間に自分はしあわせである」って。仕事もそうだけど、いろんなことやったでしょ。作家もやった、ミュージシャンもやった、百姓もやった、今川焼き屋もやった。
Mボリス・ヴィアンの名言があるだろ。「職業がひとつしかなかったら売春婦と同じ」って。
M’うん。ちょっとその話、する?ジョージ・ハリスンのあとに。
Mいいよ。前もマッケンに話したと思うけど、ぼくが初めてボリス・ヴィアン知ったのは16歳だよ。
M’そうね。
M六本木の古書店で『墓に唾をかけろ』を見て。知らないわけよ、
そのとき、ボリス・ヴィアンが何者か。
M’でも、本を手にとった。
M表紙の絵がね、杉村篤という人が描いていて。すごいあぶないエロティックなイラストレーションで。エ
ロっぽくて、手にとったのね。で、タイトルが『墓に唾をかけろ』。もうそのときボブ・ディランの世界観に共感してたんだよ。
M’それは、どんな?
M「ドアをあけると外には自由がある」っていうような。その言葉は寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』以前に、ぼくがめちゃくちゃインパクトをうけたものだったのね。それとボリス・ヴィアンの本のタイトルは同じぐらいショックだった。で、買って読んだんだけど、内容はさっぱり理解できない。
M’16歳じゃね。
Mだけど、伊東守男さんていう翻訳家が長い後書き書いてて、そのタイトルが『ボリス・ヴィアンの平行的人生』っていう。
M’上昇志向じゃなくて、横にいくんだ。
Mそう。それでボリス・ヴィアンがついた職業がズラーッと書いてあるわけよ。
M’作家でしょ。トランペット奏者。
M作詞家、作曲家、映画監督、脚本家、俳優。
M’画家、詩人、ジャズ評論家、他に何かな。
M全部で27もあった。だけど、異色な人物だけど、脚光浴びたのは68年の五月革命のときなんだよ。そのときジェームス・ボンドと並ぶヒーローとして、甦ってきた。本人はもう死んでしまってたんだけどね。
M’その「平行的人生」がカッコいいってことで?
Mいや、カッコいいことの逆でしょ。仕事は一芸に秀でてないといけないというのが一般的価値観でしょ。そんないろんなことやってたら、ぼくもよくいわれたけど、いかがわしい奴に思われる。
M’じゃ、何がカッコいいってことに?
M生き方だよ。やっぱり反骨精神をつらぬいて、世間でのしあがろうなんて思わない。
M’それは深沢七郎もそうですね。
Mこの間、金沢に行ったとき、軽い本を持っていこうって思って、諏訪優さんの『ビート・ジェネレーション』を選んだのね。60年代の名著だよ。それで、ソローの『森の
生活』とか、いろんなビートの詩人の生き方とか、あらためて読んで、それで思うけど深沢七郎のあの生き方の根底にあるのはビートじゃないかね。
M’そうかもしれないね。システムに依存しない生き方ね。農業やるのも早かったし。白石かずことか篠原有司男をかってたしね。
Mビートの人たちっていうのは社会的なことに束縛されるのを嫌がってただろ。それで山に入って木こりやって、あとは好きなときに詩を書いたり。そうやって考えると、深沢七郎は日本のビートのはしりだよ。
M’そういえば、先日、新宿でゲーリー・スナイダーの詩の朗読会に行ったんだ。
M来てたの?
M’谷川俊太郎と共演で。安田生命ホール、チケット、ソールド・アウト。で、むかし日本に住んでたのは知ってたけど、1956年から1968年までいたんですよね。
M京都にいたんだよ。
M’ジョージがラヴィ・シャンカールと出会ったころ。
M『サージェント・ペパー』でシタール弾いてるだろ。
M’で、パリじゃボリス・ヴィアンがスターになってっていうときでしょ。すごい時代ですね。それで、ボリス・ヴィアンはもういないけど、いまジョージ・ハリスンの映画が作られて、ゲーリー・スナイダーは来日して。
Mだからディランの言った「ドアをあけると外には自由がある」っていうのはいまでも生きてるんだよ。
ひさしぶりのクラブ・シャングリラ・トーク。
ぼくらが出会ったのは43年前だ。1969年のこと。クラブ・シャングリラを始めたのは20年後の1989年。
世の中は想像を絶する展開で激しく変化してゆくけど、いつもぼくらが想いを寄せるものは変わらない。
むしろ、時が経てば経つほど想いが深まり強い色を帯びてゆく。磁力は増してゆく。
それは長い道程だったとしても、先人たちはいまも雄弁に語りかけてくる。
ジョージ・ハリスン、ボリス・ヴィアン、深沢七郎、ゲーリー・スナイダー、諏訪優…。
風化しないスピリットがある。
この夜、西麻布のコリアン・レストランの『KUNG/宮』で会食した。ミックが、「もっと照明をおとして、音楽はチェット・ベーカーにしたら」とアドヴァイスしたら、空間はまるで谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』の詩情をえたかのように抜群なムードになった。
コリアン・レストランはまるでボリス・ヴィアンが生きていたころのパリのサロンのような趣きを放ちはじめた。
そうか、深沢七郎の言った「変わる瞬間に自分はしあわせである」のひとつの実証を体験した。
会食のあと、しあわせを体に保ったまま渋谷に足をのばした。JRのガード脇の吞んべえ横丁の[ピアノ]バーに行った。
4人も入れば身動きとれなくなってしまうちいさなバーで、ミックは赤ワインを、ぼくはティオペペを飲んだ。
昼の1時にジョージ・ハリスンの映画の試写会で会い、それからほぼ深夜0時まで、たっぷり半日もいっしょにすごした。
まだぼくらには「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」も悪くない。(森永博志)
この夜、最後に見た光景。コンビニの入り口。