プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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ソウルメイト
カノジョとは、、、最近、誘われて、東京都現代美術館にソーテクノなYMO展を、、横浜赤レンガにソーシュールな飴屋法水を見に行ったり、、、野毛のサーカスバーにソーファンキーなハーモニカクリームズを聴きに行ったり、、、また会うことも、真夜中の横浜~芝浦間京急地区横断メールも多くなった。
カノジョのリアルに瞬時にリアクションする反射神経はまったく衰えていないし、路上における嗅覚も健在だし、オリジナルな表現への意欲も強く、批評精神は以前より増していた。
年は20歳ほど離れているが、ソーラブリーなソウルメイトである。
旧姓松本小雪と巡りあってから、気がつけば、早25年たつ。
出会いの場はいまはなき広尾のフレンチ雑貨屋FOB.corpであった。
ビアンカ・ジャガーかとみまがうオーナーのミツエさんが紹介してくれ、出会いの印象は不良が匂った。
話すと、香港的魔窟九龍城に惹かれている危険をおかしてでも潜入してみたいという。
交わす言葉に物事の裏までみすかした感覚が煌めく。
人を映画的次元へと誘い込む魔法を使える。
ちょうど、香港の仕事をしていたので、香港についての原稿執筆を依頼した。
あがった原稿は抽象性と大人びた言葉づかいが独特だった。
ボキャブラリーの豊富さが溌剌なイマジネーションを感じさせた。
世間離れした話題も豊富で、すでにエッセイ集を刊行していて、書くことが好きと知り、雑誌、書籍、写真集、ツアーパンフ、、、に次々と執筆依頼した。
やがて彼女は目黒から横浜に移住し、そこで出会った若者と結婚した。
相手は中華街の豪族の御曹司。
本牧のソークレイジーな不良たちとのつきあいもはじまった。
両親は彼女が若い頃に離婚、父は出版界では左翼寄りの名編集者として広く知られ、現幻冬舎代表の見城徹は後輩にあたった。
名を松本市壽という。
晩年は良寛和尚の研究に没頭した。
母は画家と聞いたが「母はねー鏑木清方系の五十嵐幹てゆう、日本画家の弟子でもともとは日本画家なんです」(小雪談)
彼女は芸能界デビュー前の80年代はじめ、桑原茂一、いとうせいこう、高木完、忌野清志郎、ブラックキャッツたちと交流し、少女なのに随分と生意気だったし、デビューは篠山紀信撮影の全裸写真であった。
キャラもたち、センスもよく、可愛いとなればアイドルにもなれただろうが、実際田辺エイジェンシーに所属し芸能界稼業にはついたが、最終的にはその道には進まなかった。
電車に乗りコーヒーショップで人と会い普通に街に生き、そこで体験できるリアルな咸興を求めていたのだろう。
知的嗜好も強くサガンよりもデュラスを好む文学少女でもあり、アンリ・ミショーまで読んでいた。
『ベティーブルー』を名画と認めるませた少女だった。
芸能界を離れ、彼女は華僑豪族の一員となった。
親戚に舞踏家の大野一雄がいた。どこまでも異風である。
一般誌では初となる中国大陸を上海ー西安ータクラマカン砂漠ーカラコムハイウェーー雲南省昆明ーシーサンバンナー海南島ー北京と大移動する一ヶ月以上の取材を依頼した。
1990年、まだ中国は貧しく、インフラも未開、トイレも不備のときに彼女は平然と、嬉々として、辺境の地で長い手足を活動させていた。
父親の資質を継いでいるのか、本能的といってもいい取材能力が潜在していた。
娘が生まれ、子育てに時間を費やすようになり、なかなか、共に仕事ができなくなり、しばし、疎遠になった。
娘も成長し、自分が好きでずっと続けていた手工芸も自分のブランドを興し、うまくいっているようだ。
東欧やアフリカまで手芸の材料の仕入れにも行く。
いま彼女のこしらえる品は大正ロマン香る詩情溢れる逸品だ。
それが彼女の本性なのかも知れない。
どれもが勾玉に見える。