プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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1
はじめてのチャイナ・トリップは1980年だった。久保田二郎と、今年夏一緒に新潟に花火を見に行った写真家・坂野豊が同行者だった。
『BRUTUS』で香港特集を制作するために3人で香港に渡った。20日間ほど香港に滞在したが、中国へ行くツアーがあるのを知り、申し込んだ。
コースは山水画的名勝・桂林と広州をまわって列車で深圳から香港に入境する5日間ほどの旅だった。
桂林にはソ連からの払い下げの軍用機で飛んだが、機体はジャンクで、雲の中にはいったら、機内に雲が流れ込んできて、乗客たちは絶叫していた。
香港からのツアー・メンバーは全員白人。アメリカ、フランス、オーストリア、ベルギー、イタリアと多国籍、東洋系はぼくらだけだった。
一日目、桂林山麓の簡易ホテルに泊まった。プレハブの安っぽい造りだった。割り当てられた部屋にはいり、ベッドの掛け布団をめくると、緑色の蛇が眠っていた。
翌朝、まだみんなが眠りについている時刻、ホテルの外にひとり探索にでると、ベルギーからきたヒッピー風の男ふたりが外をうろついていた。
声をかけると、ひとりが「野生の大麻があるんじゃないかとさがしてるんだ」と言ったので、やはり想うことはひとつ。「で、あった?」、訊くと、「畑、ぜんぶ大麻!!」と目の前に広がる畑を指差す。
見れば、確かに、緑のすべてが大麻だった。
オーマイガッド!
翌日、桂林の絶景を観賞しながら川を船で上って行く。パリからきた若い女たちは、ビキニになって白い肌を陽にさらしている。カセット・プレイヤーからはデヴィッド・ボウイが流れている。チャイナトリップのはや神髄に。
途中、村に上陸する。しかし、中国人のツアー・ガイドが団体行動を統率し自由行動が許されない。まだ、中国は外国からの観光客を迎いいれたとはいえ、見られたくない現実も多いのだろう、きっちりコースが決まっていて、どこも建前的な、きれいな場所ばかりに案内された。
2日目になると、白人たちは「自由に行動させろ」とガイドに造反しはじめた。寺なんかより市場に連れて行けという。激しく迫られ、ついにガイドはギブ・アップし、30分の自由行動が許された。
と、白人たちは急に観光客とは思えない俊敏な行動を見せ、ある者は、その頃は珍しいビデオ・カメラで市場の籠の中の猫や犬を撮っていたり、村人に小型カセット・テープ・レコーダーでインタビューしていたり、なんだか行動があやしい。
「あいつら、何者なんですかね?」
と、ジローさんに訊くと、
「あれは西側のスパイじゃないかね」
と推理する。
「スパイ?」
「だからな、開放政策後、中国がどうなってるか、調べにきたんだよ。観光客のフリして。中国人はまだ、犬猫、食ってるとかな」
「あそこで、インタビューしてる人は、何きいてるんですかね?」
「給料、幾らとか、まだ毛沢東を崇拝してるのかとか、な」
白人たちは市場を走り回っている。ベルギーのヒッピーはジョイントを吸っている。彼らは刈り取った大麻を紙袋にいれ、ヘア・ドライヤーで乾燥させていた。あいつらもスパイなのか?
1980年の旅は、そんな素朴なもんだった。
2
1983年、『 BRUTUS』で中国特集を組むことになった。
一般誌の中国取材はまだ解禁されていなかった。中国政府は自国の情報が外にでることに厳しく目を光らせ、容易に取材はできない時代だった。
案の定、中国政府に取材を申し込むと却下された。コーディネートをしてくれるオフィスと相談すると、何らかの公的機関の招待ならば、入国できると知った。しかし、マスコミとしては不可能と言われた。
編集部の担当は数々の伝説を持つ怪人エディター小黒一三。
写真家はかの天才カメラ小僧・三浦憲治。雑誌の性格上、旅のリポートではカッコがつかない。欧米特集と同じ演出で、カルチャー&ファッションとして誌面構成する。モデルは黒澤映画にも出演していた伊藤敏八に決まった。他に、三浦の助手の西脇要の計5人がチームだった。
漂泊の詩人・李白を主題とし、鉄道の旅を企画した。鉄道ならば、鉄道省の管轄である。
そこで〈目黒区鉄道研究会〉という架空の団体を結成し、名刺をつくった。目黒となったのはコーディネートする会社がたぶん目黒にあったからだろう。
研究会は、うちの父が国鉄マンで新幹線の開発にたずさわっていたので、ぼくが会長に就任した。小黒が副会長、ほか3人が会員だ。
旅程は、北京、青島、蘇州、上海。2週間ほどを予定した。その鉄道視察の計画(実際は取材)を鉄道省に申請すると、アッサリ許可が下りた。
各都市の鉄道省支部がわれわれを迎いいれてくれることになった。
視察に最新のモードなどまったく不要だが、われわれは、それを特集のメインと設定していたので、アパレルのJUNとタイアップした。スタイリストを同行させるわけにはいかないので、日本で何パターンもコーディネイトしてもらい、膨大な服を衣装トランクにつめこんだ。
その時点で、北京空港入国時に税関でひっかかるリスクを負っていた。また、三浦の機材も大量だったので、それも空港で問題になることが容易に想像できた。
空港で、偽装がバレて即強制送還の憂き目を見る羽目になるのか・・・・旅立ちは気が重かった。
3
当時、北京に観光で行く旅客などはいなかった。
北京便はガラガラだった。
北京空港到着。
随所に人民解放軍の兵士が銃を手にたっていた。空港の空気は緊張していた。
鉄道省招待の公式書類があったので入国審査は難なくすみ、次は難関の税関だ。
はじめに三浦のジェラルミン製トランクが検査され、税関員が一番上にあったポラロイド・カメラを、それは見たことのないモノだったのだろう、「なんだ!?」と不信がった。言葉はまったく通じない。
実演してみせるしかない。三浦が税関員にポラロイド・カメラを向けシャッターをきった。フィルムが飛び出してくる。
フィルムを税関員に手渡した。
見る見るうちに、フィルムに彼の姿が出現し、その瞬間!!! 真に驚愕の叫びをあげ、その声は大事件に遭遇したかのような、あたりに響き渡った!!
声を聞いた他の税関員や兵士が群がってくる。
全員、ポラロイド写真に驚愕している。
撮られた税関員が何が起こったか、みんなに興奮して説明している。
そこで、驚きの合唱があがり、さらに中国人が集まってくる。
三浦は調子にのって、他の中国人たちを何人もポラっている。フィルムに姿が浮かび上がるたびに歓声があがり、あたりが騒然となった。
三浦は奇跡をおこす神のような存在になった!
もう、誰もが職務を忘れポラ騒動に異様な興奮状態だ!!
「いま、このスキに衣装トランク、だしちゃおうぜ!」
小黒が機転をはたらかせ言い放った。
われわれは横に並び人垣をつくり、背後にカメラ機材と衣裳のトランクを移動させ、税関を通過させてしまった。
ポラ騒動に気をとられている税関員たちは誰も気づかない。どさくさにまぎれて、ようはズルをしたのだった!
そのぐらいしたたかじゃなかったら、中国とはたちうちできない。
かくしてポラロイド・カメラと三浦のパフォーマンスのおかげで、無事入国することができた。
4
しかし、われわれ視察団はだれが見ても鉄道関係者には見えない。
北京では、さっそく鉄道省のお偉方との会食会に呼ばれ、そんな席で日本の鉄道事情など聞かれたら、たまったもんじゃない。
中国の歓迎のセレモニーは白酒という強い酒の乾杯をくりかえす。ならば、ガンガンお偉方たちに飲ませて酔いつぶしてしまおうと、策略家の小黒と作戦をたてた。
結局、各都市での鉄道省との会食会を、その作戦でのりきった。
まだ、中国には取材コーディネーターのひとりもいず、北京大学に留学していた日本人の若者を通訳として雇った。彼が上海まで同行してくれた。
また、こんな機会はもう2度とない旅をビデオに記録しようと、ソニーの北京支社にビデオ・カメラを借りに行くと、日本人の社員はまだひとりだった。ソニーでひとりという時代だ。
北京の市中は自転車の洪水だった。自家用車の一台もなかった。大道を埋める自転車の光景に人民のパワーを感じた。夜は真っ暗闇だった。娯楽は皆無だった。
北京はあまりにわれわれの生きる西側系社会と異なっていた。
まさにそこは大都会だが隔世の地だった。
30歳そこそこの自分らには、衝撃度は強すぎた。カルチャー・ショツクを超えた体験だった。歴史は一通りではなく、イデオロギーにひっばられて、とんでもない道を爆走する歴史の現場を実感した。
この体験は約10年後、ソ連崩壊直後のモスクワでも体験することになる。
はじめて、歴史に触れた想いがした。
北京から青島へ、急行で17時間の移動をした。
鉄道視察などせず、衣装をしょっちゅう着替える敏八を撮影している。
「なんで、そんなに服をもってきたのか?」と聞かれれば、「趣味です」と答えていた。
旅にはふたりの役人が同行した。彼らが公安であるのは、呑気なわれわれにもすぐにわかった。われわれの正体はすでにばれていたのだ。でも、入国してしまっているし、会食会で何度も杯を交えているし、その正体といっても、スパイには見えないだろうし、日本から持って行った漫画をプレゼントもしてるし、われわれの存在は偽装しているが大問題ではないと判断したのだろう、けっこう親しくなっていった。
青島はかつてドイツの植民地だったので城が数多く残っていた。また、海辺の街なので、コロニアルなリゾート地の空気も漂っていた。ドイツの技術がもたらされ製造された青島ビールの工場に行き、ベロンベロンの工場長に迎えられ、たらふくビールをご馳走になった。
人種的な違和感を感じることはなかった。
どこへいっても歓迎された。日本にいたら、けっしてまともな社会人とはいえないわれわれのキャラクターは、逆にうまく中国人たちにとけこんでいった。
すべて目にするものは、前代未見、高揚感は高みで発熱しつづけた。
蘇州へと南下した。夜行列車だった。列車の旅は気分を解放する。飛行機や車のように体が座席に縛られることがない。船は海が荒れたら苦痛だろう。列車は食堂車で和む時間も持てるし、寝台車ならば、横にもなれる。
車輪が奏でる音も、かつてアメリカの開拓時代、鉄路を走る列車の音から黒人たちがジャズのビートに目覚めたといわれるくらい、それは音響的でもある。旅する身には心地よくもある。
内田百閒が列車の旅を愛したのもわかる。もう、すでに、そのころ中国では蒸気機関車は姿を消していて、ジーゼルが主役になっていたが、夜行列車の旅情は充分満喫できた。
蘇州は庭園と運河の古都だった。ものすごく文化的な時間が流れていた。京都に似て。ここで、はじめて落ち着いた趣き豊かな中国文化に触れた。じつに大人っぽい。かつて、蘇州は地上の楽土といわれ、人々はこの地に住むことに憧れた。
上海へ向かった。
憧れに憧れた上海。いったい、どこからその憧れが生まれたか。やはり、金子光晴を読んだからか。戦前の歌謡ブルーズ『上海リル』、『夜霧のブルーズ』に導かれてか。この2曲は歌詞をそらんじていた。いずれにしろ、金子光晴の『髑髏杯』、歌謡ブルーズに共通する退廃感に心惑わされたのだろう。
しかし、その上海は1920年代、30年代の世界。1980年代には望むべくもない。とうに失われた世界だ。
夜に、上海駅に着いた。街に出たが、憧れた上海はネオンの輝きひとつなく、闇の中に暗い表情でヴィクトリア様式、アール・デコのビル群がそびえ、死の街を連想した。古い建物だけが残されて、退廃に彩られた文化は微塵もなかった。
それでも、旧フランス租界地には、かつての栄華をしのばすジンジャン・クラブとジンジャン・ホテルが営業していて、宿泊した。
ここで、憧れた上海のきらめくイメージをつくることができた。
上海3日目、西やんこと西脇が言うのだった。
「森永さん、xxxxありますよ」
「もってきたんだ?」
「はい」
「やろう!」
上海でxxxxをやったのは歴史上われわれがはじめてだろう。1920年代上海にタイムスリップした。暗黒の20世紀に刹那の快楽的光芒を放った幻のオリエンタル・パラダイスへダイブした。
特集は『二千壱年中国の旅』と題し、キャプションも含め400字づめ原稿用紙200枚という文字量を数日で書いた。全体に李白の詩を飾りでちりばめた。総ページモノクロ含め45頁。
旅の間、ビデオを回していた。やはり、われわれの正体はばれていて、公安から帰国後、写真は許すが、ビデオ・テープだけは送り返せとメッセージがとどいた。
雑誌が発売されると、翌日、〈朝日新聞〉の朝刊の一面に、激しく特集を批難する社説がのった。
そのころ、日中は、世にいうところの「教科書問題」で緊迫していた。
ようは日本の教科書は日本人が築いた満州国に関し、中国へ「進出」と表現していたが、中国側は「進出」ではなく軍事的「侵略」と改めよと強硬な抗議をしてきて、そのことに関し国会で論議されている真最中だった。
あれは間違いなく「侵略」だ。論議無用。
そんなシリアスなときに、『BRUTUS』の中国特集のファション・ページはあまりに軽薄であると、ヒステリックに批難していた。その文面には軽蔑以外に嫉妬の感情がにじんでいた。奴らは取材できないのだから。
ファションを軽薄と見る時代錯誤もはなはだしい朝日にはあきれたが、なめてもらっちゃこまりますよ、われわれの知性は1982年の段階ですでに2001年の中国は西側の文明・文化を全面的に導入しているとよんでいたのだった。じっさいその通りになった。
だから1982年の中国に西側の消費文化の象徴である最新のモードを強制送還覚悟で持ち込む必然があったのだ。
朝日新聞〉のその翌日、今度は〈読売新聞〉が朝日の記事の4倍ものスペースをさいて、中国特集を絶賛する社説をのせた。
社説は、われわれの考えと同じ、中国の将来を大胆な方法で表現していると論じていた。
時代は変わる。その躍動のなかで、マガジンのフリー・エディターという稼業にやり甲斐をかんじていた。
1982年のことだった。
上海にxxxxを持ち込んだ西やんは早くに亡くなった。