森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

そのとき吉田カツは大阪の広告制作会社に勤務していた。

ある日、残業で会社にのこり広告デザインの仕事をしている最中、サイケデリック・ロックの雄、THE CREAMの『WHITE ROOM』がラジオから流れてきた。

聴いた途端、そのときまでの会社員の生活が吹き飛んだ。

粉砕!されたのだ。

カツは会社を辞め、ロックを描くイラストレーターになる決意し、決起した。

そのときすでに30歳だった。

初めの仕事は金にならない日本版『ローリングストーン』(現在刊行されてるのとはまるっきし内容がちがう、ラディカルな雑誌だった)のカット。

記事にそえられたちいさなイラストレーション。

それで、ぼくはスージー・クワトロの全身像を見た。クワトロは全身なめし革のスーツを着たセクシー・ダイナマイト!その存在感がエンピツで巧みに描かれ、目をうばわれた。天才だ!直感をえた。

すぐ編集部に電話し、連絡先を聞き、ダイヤルを回した。

このころ、ダイヤル回す感じが、私立探偵っぽくて好きだった。

何処で会ったのか。渋谷の〈マックスロード〉だったか。

すぐに仕事を依頼した。

メンズ・マガジンのジェームス・ディーン特集に10点ほどのポートレイト。

1点だけ1頁大の4Cカラー。

それはそれは迫真のポートレイトだった。それがカラー作品の第一号だったか。

それ以後、松方弘樹と山城新吾の単行本のカバー、ぼくが編集長をつとめた『FORLIFE MAGAZINE』や『小説王』、『翼の王国』らでいっしょに仕事をしてきた。

また吉田カツは多くの作品集を刊行しているが、そのうちの『満月変』、『ラウンド・ミッドナイト』、『ポピュラー』他、何冊も編集、執筆ワークでコラボレートした。

もう長い間、会うことも話すこともなくなっていた。

吉田カツは東京を離れ、郷里のある兵庫へと帰っていた。

イラストレーターの仕事もやめ、画家の道を歩んでいた。

何年か前、仕事で京都に行ったとき、初の個展が開催されたので、画廊をのぞいた。本人はいなかった。

相変わらず、風狂な絵を描いていた。

ぼくは絵画は苦手なので、どうなのか、わからなかった。

いつも身近に、吉田カツの作品集はおいていて、イラストレーションをながめては、なんて見事なんだと見る度に感心していた。

江戸時代の絵師みたいだった。


12月21日、奥さんから電話が入った。

奇才、逝く。


編集と作家論を執筆した『POPULAR』は海外でも発売された。

シアトルの本屋でそれを見たときは、感動した。


合掌。


写真1
初めて見たカツの絵。スージー・クアトロ

写真2
左、ジェームス・ディーン、初めての仕事(1976)

写真3
右、J・ディーン、カツとの初めての仕事(1976)

写真4
1976年、左は書籍用、右はFORLIFE MAGAZINE 挿絵

写真5
1984年 「小説王」の挿絵

写真6

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