プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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1982年、実験的文芸誌『小説王』を創刊すべく構想をねっていた。
斬新な表紙のアイデアが閃いた。
文豪・芥川龍之介のポートレイト・アートをアンディ・ウォーホルに依頼する。
それを12分割し、毎号一点づつ表紙に発表。1年でポートレイトが完成する、という。
そのころ、日本でウォーホルのシルクスクリーン制作のプロジェクトが進んでいて、ぼくもそれに関与していた。
その縁で、NY側のスタッフとコネクションを持ち、ポートレイトの話をふると、仲介をかってでてくれた。
ウォーホルに打診すると、制作を承諾してくれたと連絡が入り、芥川龍之介のモノクロ写真を持ってNYへ渡った。
NYには、特集を制作すべく『BRUTUS』のチームが滞在していた。スタッフは全員、仲間だった。
NYに来るのなら、『BRUTUS』の仕事を手伝ってよという運びになり、彼らと同じホテルに泊まった。
ぼくがまかされたのは、NYの住人が怖れて近づきもしないアルファベット・ジャングルへの決死の取材や、ローリー・アンダースン、フィリップ・グラスのインタビューなどだった。
ウォーホルへの交渉は順調に進んでいたが、〆切でつまづいた。ウォーホルは多忙を極め、こちらの望む期日までに完成させるのはむずかしい雲行きになった。
仲介者の日本人女性にもすこし問題があった。アル中だったのだ。それも重度の。話のつじつまが合わなくなってきた。
『BRUTUS』の取材は順調に進んでいった。
そのころ、NYではニュー・ペインティングのムーブメントが興盛を迎え、ジャン・ミッシェル・バスキュア、キース・ヘリング、フューチュラ、ラメルジー、A-1といったグラフィティー・アーティストが脚光をあびていた。
マドンナのショーを、〈パラダイス・ガレージ〉と〈ロキシー〉で一晩に2回も見て、取材チームは感動し、さっそく取材を申し込んだ。
それが世界初の、マドンナの取材となった。
彼女はまだ無名で安アパートに住んでいた。
グラフィティー・アーティストはフツーだったらひとりひとり訪ねて取材するところだが、取材チームのリーダーが、「もういっぺんに呼んで一発で写真撮っちゃおうよと」ととんでもないことを発案し、じっさいにセッティングした。
ウォーホルのスタジオにつとめる女性のマンションでパーティーをすることになった。彼女はそのときバスキュアと深い仲にあった。
パーティーには寿司職人に来てもらった。
SUSHI PARTYだ。
招待の連絡をいれると、みんなやってきた。
ウォーホル御大まで現れ、パーティーは活気づいた。しかし、ウォーホルはパーティーのひとたちにまじわらず、ついたての裏に身をひそめてしまった。
ものすごくシャイなんだ。パーティー・ピープルだと思ってたのに。
意外。
バスキュアとキースは、ものすごく気さくな若者だった。高校生と話しているようだった。
特にアートの話をするでもなく、くだらない話に興じてる。自然体なんだ。街っ子って印象が強かった。
ここで記念撮影をすることになった。ウォーホル御大にも写真にはいってもらおう。
しかし、御大はついたての陰にかくれたままだ。NYに住んでいるTちゃんに、「ちょっとウォーホルに写真とりましょうって言ってこいよ」と行かせると、もどってきたTちゃんはちょっと困った顔をしている。
「どうしたの?」
「金、くれって」
「エーッ!金!」
想定外の展開だ。
「いくらだよ!聞いてこいよ」
交渉に行って、もどってきたTの顔にもう困惑の表情はきえていた。
「いくらだって?」
「50ドル!」
「マジかよ」
「キャッシュで50ドル払えばOKだって」
「払うよ、払うよ、50ドルぐらい」
と、リーダーはTにキャッシュを渡している。
再度取り引きに行くTに、リーダーは声をかける。
「領収書、もらってこいよ」
それで、アンディ・ウォーホルを中心に集合写真を撮ることになった。キースは消えていた。
しかし、アンディ・ウォーホルの日記本を読むと、その日ウォーホルは別のところに行っている。ということは、ニセモノだったのかな。何人ものニセモノがいたのかもしれない。
それもウォーホルっぽい。じっさい、本人に代わってニセモノが大学の講演に行ってたこともあった。それは発覚し騒ぎになっていた。
ここに映ってるウォーホルは、ホンモノかニセモノか?いまとなってはわからない。
結局、『小説王』の表紙はウォーホルの作品で飾れなかったが、表4はウォーホルだった。
でも、これも、どうなんだろう。
ホンモノかニセモノか。