森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

本多さん、逝く。

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写真左端が本多さん。


クリームソーダ音楽出版代表の本多博典さんは、伴晋作とともに、山崎眞行の片腕として知られてきた。山崎から「ヒロ」と呼ばれる同郷の幼馴染で、クリームソーダ黎明期、新宿のスナック<ジュンブライン>の時代から、山崎の生き様を目の当たりにしてきた、まさしく歴史の生き証人でもある。最後のドラゴンへのインタビュー。


森永:本多さんは、山ちゃんと同じ北海道の赤平の出身ですよね。山ちゃんと最初に知り合ったのは、何歳の頃なんですか?


本多:高校に入ってからですね。山崎の家は住友炭鉱の社宅で、僕は旧市街の出身。エリア的にはちょっと離れていて、小中学校は別だったんですが、高校は一校だけだったので同じに。1年は別のクラスで2〜3年が一緒のクラスでした。


森永:仲良くなるきっかけとかあったんですか?


本多:高校2年のときです。不良グループのなかでも山崎は目立つ存在だったんで、炭鉱街の先輩のヤクザから金を集めろと言われたらしいんですね。それで考えた山崎は、クラスメートから米を茶碗に1杯づつ貰い、それを売って金を作った。そのとき家に来た山崎に、僕が米を茶碗に3〜4杯あげたのかな。それでいい奴だと思ったらしく、仲良くなったのはそれからです。


森永:それから一緒につるむようになったんですか?


本多:学校が終わると、山崎と炭鉱の社宅から来た仲間4〜5人で、親不孝通りと言われた旧市街の繁華街あたりをうろついていました。当時は炭鉱の景気も良くて、ダンスホールやビリヤード場もあり、映画館なんて3館あった。賑やかだったんですよ。冬にはよく赤平駅の待合室に集まっていましたね。ダルマストーブがあるから温かいんです。1人が見張りに立ち、皆でタバコを吸う…。


森永:そこではどんなことをしていたんですか?


本多:山崎はよく映画の話をしていましたね。石原裕次郎が好きだとか、浜田光夫はかっこいいとか。あるときは映画に出てきたラッパズボンがかっこいいと言って、いつのまにかどこかで誂えて履いていたことがあった。当時そんなズボン、どこにも売っていませんから。たぶん山崎は、赤平で一番最初にラッパズボンを履いた男ですよ。山崎はそういうとこ敏感でしたね。目にしたものに感化され、すぐに取り入れる才能が、当時からあった。


森永:高校卒業後、山ちゃんはすぐに東京に出るんですよね。本多さんは、どうされたんですか?


本多:一番上の兄貴が地元の税務署に勤めていたので、その影響で税務署職員の採用試験を受けました。大学に行く余裕はないと言われていたし、地元を離れる気はありませんでしたから。地元で就職するつもりでした。


森永:国家公務員を目指したんですか。当時、東京への憧れとかはなかったんですか?


本多:ぜんぜんなかったですね。付き合ってた女もいたし、むしろ北海道から出たくなかった。山崎も最初は、警察署をはじめいくつか地元で就職先を探していたんです。それが全滅だったので、試験のない東京の大学に行くことにした。普通、大学に落ちて就職するものですけど、逆ですよね。一方、僕の方は採用試験に受かって、札幌にある全寮制の税務大学校で1年間、民法や商法、簿記や税法を勉強することになった。ところが、卒業後に決まった赴任先が、皮肉にも東京の税務署。どうやら三男坊だったので、遠くに飛ばされたみたいです。


森永:北海道に残りたかったのに、東京に引き寄せられたわけだ。本多さんが東京に出た時、山ちゃんはどこにいたんですか?


本多:携帯もなく、長距離電話も高いので、もっぱら連絡は手紙の時代でしたけど、たしか東上線の埼玉との県境辺りに住んで、池袋の喫茶店でバイトしているらしいとは聞いていました。


森永:北海道新幹線はもちろん、東北新幹線も青函トンネルもない時代ですよね。


本多:税務大学校の同期と一緒に青函連絡船で津軽海峡を渡り、東北本線で上野駅まで、ほぼ丸1日。当時は蒸気機関車なので、上野に到着した時は全身、煙で真っ黒でした。結局、その日は上野の旅館に泊まったのかな。風呂を浴びた後は自由時間だと言われたので、タクシーで新宿に向かったんです。なぜかそのとき、新宿に行けば山崎と会えると思ったんですね。


森永:山手線じゃなくて上野からタクシ?


本多:東京の地理も分からず、上野から新宿までの行き方もわからないし、距離感もない。それでタクシーに乗ったんです。料金メーター見ながら気が気じゃなかったですけど(笑)


森永:山ちゃんが、新宿の〈三峰〉で働き出す前ですか?


本多:そうです。ただ、高校の同級生の女の子が二人、新宿の〈小田急デパート〉に勤めていることは聞いてたんです。今考えると無謀なんですが、当時の田舎の感覚なので、行けば会えるだろうと。それで新宿で〈小田急デパート〉を探して歩いていると、向こうから歩いてくる山崎とばったり出会ったんですね。


森永:それはすごい!あの新宿の雑踏のなかで偶然出会うなんて、普通はありえない話ですよね。


本多:そのときは「あっ、いた!」って感じでしたけど、すごい偶然でしたよね。それで、お茶でも飲もうとなって、東口の喫茶店に入ったのを憶えています。今振り返ってみると、あのときが自分の人生を決めた瞬間だったと、つくづく思いますね。


森永:それから山ちゃんと頻繁に会うようになったんですか?


本多:いや、最初に大森の税務署に赴任したんですが、慣れない仕事で忙しくて、その後3年間ぐらいは寮のある参宮橋と大森を往復する毎日でしたね。でも一度、参宮橋の寮に山崎が尋ねてきたことがありました。じつはその寮、東京オリンピックの選手村だった建物で、大会後、国税局の官舎になっていたんです。共同風呂で、2〜3人の相部屋でしたが、選手村ということで山崎は興味をもったのかな。あっ、その後、山崎が新宿の〈三峰〉で働くようになってから、一度だけ店に行ったら、スーツを買わされたことがありました。マルイのクレジットでしたけど(笑)


森永:頻繁に会うようになったのは、いつ頃からなんですか?


本多:ある時、山崎から「スナックを始めたから遊びに来い」っていう電話がかかってきて、仕事帰りに寄ったんです。それが新宿の〈ジュンブライン〉でした。


森永:そこで初めて伴ちゃんに会うんですね?


本多:はい。初めて店に入った時、カウンターに寄りかかって立っていた伴ちゃんは、モデルみたいでかっこよかった。伴ちゃんも、「山ちゃんの同級生なんですよね」って、あの笑顔で愛想よく接してくれるから、憧れましたね。友だちになりたいと思いましたよ。なにしろ周りはみんな、オシャレな連中ばかり。スーツ姿の税務署員には場違いな感じでしたけど、伴ちゃんと山崎がいてくれたし、自分の幼馴染が花の新宿で、流行りの店をやっていることがなんだか誇らしくて。それから店に通うようになりました。


森永:最終的には、本多さんも税務署を辞めて、山ちゃんの店で働き始めるんですよね。それは〈ジュンブライン〉を改装して〈怪人二十面相〉になってから?


本多:いや、たぶん〈ジュンブライン〉の頃ですね。自分たちの思うように自由に生きている山崎と伴ちゃんを見ていて、なんか羨ましくなっちゃったんですね。税務署ではルールに縛られ、宿舎に変えれば宿舎のルールに縛られ、そんな生活がつくづくいやになった。一人暮らしにも憧れていましたしね。


森永:東京オリンピックの選手村には飽きた?


本多:その頃はもう、宿舎は神田駿河台に移っていました。


森永:当時の神田駿河台といえば、神田カルチェ・ラタン闘争なんかがあって、混沌としていた時代ですよね。


本多:ええ、あの機動隊と全共闘の闘争はすごかった。お茶の水の駅から宿舎までの間、学生が投げる道路の敷石と、煙を上げる催涙弾が、飛び交う合間を帰っていった。なにか世の中がすごい勢いで変わってゆく、街中にそんな空気があふれていましたね。


森永:そんな時代の空気もあって、住むところも保証され、給料も将来も保証されても、国家公務員の特権を投げ捨てたわけですね。


本多:最初はアルバイトですよ。仕事が終わってから店を手伝い始めた。正直言うと、自分も店を持ちたいと言う気持ちがどこかにあったんですね。山崎ができるなら自分にもできるだろうと。すぐに無理だと諦めましたけど。でも、店は繁盛していて毎日楽しいし、こっちの方がいいなと思って、それである日、税務署長に辞めさせてくれって言いに行ったんです。「お前一人を育てるのにどれだけ税金を使っていると思っているんだ!」って、ひどく怒られましたけど。


森永:ついに税務署を辞めて社員になったわけだ。それが何年ぐらいのこと?


本多:〈ジュンブライン〉のオープンが1967年で、山崎が22歳で大学を卒業した年ですから、おそらくその翌年、1968年頃だと思います。社員といっても、山崎に「サラリーマン辞めたからここで働かせてくれ」と言ったら、「いいよ」って。それだけの話です。次の日、その格好じゃまずいからって、渋谷の古着屋に連れて行かれて、ジーンズとマドラスチェックのボタンダウンシャツを買わされ、それを着て毎日店に立つようになりました。


森永:それが生まれて初めてのジーンズ体験?


本多:そうですね。とにかく山崎には、カリスマ性というか、人を巻き込むというか、そんな不思議な力がありましたね。山崎にこうしようとか、こんなの作りたいねって言われると、なぜかそれを実現させようという使命感みたいなものを感じてしまう。自分はあまり人と喋ったりご愛想が得意じゃないので、山崎が生きていたときは、ずっと裏方でいいと思っていましたから。


森永:でも、〈クリームソーダ〉で洋服を始め、〈ガレッヂパラダイス東京〉が大当たりして国税の査察が入ったとき、それを本多さんが解決するんですよね。


本多:税務署に勤めていたので多少心得があった。それでどう対処すればいいかわかった。ただそれだけですよ。なにしろそれまで山崎は、銀行は信用出来ないと言って、自宅のタンスに店の売上をぜんぶ入れていたんですから。税務署的にはあり得ない話ですよ。


森永:へぇ、〈元キャロル〉のジョニー大倉と同じですね。


本多:結局、税務署時代の同期の親父さんに税理士がいて、対応を引き受けてもらったんです。でも当時、たしかに自分以外、そんなことに対応できる人間はいなかったかもしれない。


森永:それまでそういう現実の世界を一切無視してきたわけだから、いきなり税金とかシビアな現実突きつけられても、山ちゃんと伴ちゃんじゃ、とても対応できるわけがない。それが何年ぐらい前の話?


本多:ブラックキャッツの頃だから、たぶん1980〜1981年ぐらい。


森永:あと、山ちゃんがよく言ってたんですけど、一度、山ちゃんと伴ちゃんが揉めたことがあったとか。それを救ったのが、本多さんだったそうですね。


本多:理由はわかりませんが、あるとき伴ちゃんが「もう山ちゃんとはやっていけない。俺は大阪の知り合いのところ行く」と言い出したことがあったんです。それで「伴ちゃん、ちょっと待ってよ」って必死に説得して、なんとか思いとどまってもらったことがある。


森永:本多さんの人徳ですよね。1対1の関係って脆いけど、山ちゃんと伴ちゃんの間に本多さんがいて、3人の関係性があったからこそ、長く続いたんでしょうね。


本多:原宿の〈キングコング〉がオープンし、〈シンガポールナイト〉も始まっていた頃でしたから、今、伴ちゃんに出て行かれたらすべて終わると思っていたので、もう必死でしたよ。とにかくクリームソーダは、伴ちゃんがいて社長がいて、その下に僕がいて、3人でつくってきたものだから、伴ちゃんが亡くなって3本柱の1本が欠けたとき、なにかが大きく変わってしまった感じはありましたよね。


森永:伴ちゃんが亡くなったのが1997年、12月24日のクリスマスイブでした。50歳は早かったですね。


本多:それから16年後の2013年の3月24日に山崎さんが亡くなって、今では3本柱の2本が失くなってしまった。「本多さんがしっかりしなきゃ」ってよく言われるけど、僕はもう70歳を過ぎたし、もう世代交代の時期。自分の役目は、新しいことを始めるより、若い世代に引き継ぐことだと思っているんですよ。


森永:でも、本多さんと山ちゃんの関係って、不思議な関係だと思いますよ。子供の頃からずっと一緒で、山ちゃんも次から次にいろんなことやって、けっこう失敗もしているけど、ギリギリのところで本多さんが活躍して助けたりしながら、山ちゃんが死ぬまでお互いの関係が続いてた。


本多:この人のためならなんでもしてあげたい。そう思える唯一の男でしたね。社長がなにかやるというなら、何も問題ない。いつでも全面的にバックアップしますという気持ち。伴ちゃんにしても同じ気持ちだったと思いますよ。今後の自分の人生にそんな人間はもう現れないだろうし、死んでからもこうやって、沢山の人達が山崎のために働いている。北海道の田舎街では劣等生だった、あの不良がここまでやったんだから、本当にすごい男だと思います。(談)

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