森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

早乙女道春と。



2015年冬、早乙女は賑わいでいる。

まず、伊勢丹や三越でにぎにぎしく展開されるボッテガヴェネタのキャンペーンは早乙女の絵が使われた。アニメーションにまでなった。そのために数知れず描きおろした。

次に、CDジャケット二作のカバーを彼のドローイングが飾った。

ひとつは、BIG JAY McNEELY with BLOODEST SAXPHONE『LIVE IN JAPAN』、これはカバーだけではなく、裏側にも富士山と疾走する新幹線を描き、インナーにもメンバー全員を描いている。

また勝手にしやがれのメンバー三人により結成されたLittle Donutsにはダブル・ジャケットを絵が飾っている。

[早乙女&森永制作フライヤー]

そんなおり、早乙女とかれこれもう十数年もつづけている第三土ヨー日@レッドシューズで、彼をゲストに迎えてトーク・ショーをおこなった。

彼とは【バー青山】での【オフ・オフ・アートスクール】とペーターズ・ギャラリーで開催された彼の個展のときに呼ばれて公開トークをおこなった。

今回のトークは感慨深いものがある。


トーク・ショーのタイトルは「俺たちは西麻布の路上で出会った」、本当に、あれは90年代の初頭のこと、いまも80年代バブルの遺産として遺るナイジェル・コーツ・ビルの地階に【ウォナ・ダンス】というニューヨークのクラブ名をパクったのか、同名のクラブがあった。

よく、仲間たちと遊びにくりだした、そんな、ある日、店が閉店し表に出ると、もうすっかり夜は明けていた。

路上には脇に画帳を抱えたノッポで痩せた若者がひとり立っていた。

彼は連れの堀切ミロに歩み寄り、「作品を見てください」と画帳を渡そうとした。ふたりは言葉を交わしたあと、ミロが「パパ、彼の絵を見てあげて」と言うので、画帳を受け取り、絵を見ると、ジャズ・プレイヤーたちのポートレイトであった。

それも似顔絵にとどまらず、豊かな表情、雰囲気を醸し出していた。

ピーンとくるものがあった。彼の名前と電話番号を聞いて別れた。

それが早乙女との出会いであった。

トーク・ショーで、なんで、路上で、売り込んで来たのか聞いた。そのころ、早乙女はよく車で夜の街をクルージングし、車にはいつも画帳を積んでいて、仕事につながりそうな人にアタックしていたそうだ。

堀切ミロは彼が絵を学んだセツ・モード・セミナーの大先輩であり、ミロが夜毎、芝浦【ゴールド】や西麻布【イエロー】【328】に出没しているのを知っていて、アタックするチャンスを狙っていた。

それで遂に【ウォナ・ダンス】でミロにアタックできた、という話だった。

早乙女と出会った数日後、仕事の依頼をしていた。そのころ、旅行雑誌の編集後記を書いていて、ぼくのテキストにリリー・フランキーが絵を描いてくれていたが、衝動的に早乙女と組みたくなって、昔のマッチのラベルのような図案を描いてくれと依頼した。

最初は小さなカットから仕事をはじめたが、そのうち、機内誌の『翼の王国』の編集をするようになり、そこで、本来は写真を使用するページに全面的に早乙女の絵を配した。

それも数ページからはじまって最終的には20~30ページを早乙女の絵が埋めた。

その特集をぼくが担当することもあり、北京には一緒に行ったが、他の担当者と彼は海外や国内を旅し、絵を描いていった。

立川直樹も彼の絵が気に入り、著書『ゲンズブールとの一週間』の表紙画、本文挿絵を依頼している。最近も関西の料理雑誌の連載ページに早乙女を起用していた。

その後は早乙女とは日本版『エスクァイア』、週刊『プレイボーイ』、『フラウ』、『ドクロマガジン』、『団塊パンチ』、『レッドシューズの逆襲』などの雑誌、webマガジン、単行本、電通総研のブックレット、日光江戸村フリーペーパーらの仕事で組んでいたが、それはよくあるエディター&ライターとイラストレーターの関係だった。

また、『続ドロップアウトのえらいひと』にも彼のライフ・ヒストリーを書いた。


それが十数年前に、ふと思い立ち、俺たちは路上で出会ったのだから、その原点に帰ろうと提言した。

そして、画材を持って夜の街に繰りだし、六本木のストリップティーズ・クラブや西麻布のロック・バーでダンサーや客の絵を描いていった。


それは仕事ではないので無報酬、しかし、それは武者修行のようなものだ。

スキルを売るものは修練と鍛錬をつづけなければ腕は鈍る。

キース・リチャーズはあれほどまでに成功したギタリストなのに毎日ギターを弾いていると聞いた。ピカソも毎日デッサンしていた。

田名網さんは、いまも毎日、夢と少年期の記憶を絵に記録している。人から頼まれないことをやるのがアーティストなんだよ、と田名網さんは教えてくれた。


ぼくはその言葉を肝に命じた。だから、仕事以外にも文章はよく書いた。

桐野夏生さんも語る。

「私は、あらゆる意味で、自分の作る世界の強度を強める努力を怠らない人にしか興味を感じない」


遊びに行っていた店ではじまったライブ・ドローイングは、しばらくしてから、南青山【レッド・シューズ】でライブ&DJの朝までパーティーを月一、第三土曜日に開催することになったので、早乙女に参加するように誘った。

出演者たちは早乙女がライブ中に速描した絵を見て感銘し、何人かはCDジャケットに絵を使用した。

やがて、ブラサキとの運命的といえる出会いを迎える。

そのへんの事情はこのWeb内の画在巷間伝に詳しく書いた。


【レッドシューズ】でのライブ・ドローイングをきっかけに早乙女とブラサキとの親交がはじまった。

ツアーに同行し、旅先のライブハウスでもライブ・ドローイングをはじめた。

CDジャケットにも絵を描いた。

いつしか仕事が生まれていった。

ジュエル・ブラウンとの共演アルバムが海外発売されることになった。通常はわかりやすいアーティスト写真を使用するのが海外では当たり前だが、発売元は早乙女の絵が使われていた国内版を見て、同じでいこうと異例の決断をした。

さらに、早乙女が最も望んでいたジャズのアナログ盤を絵が飾ることも実現した。それも元サッチモ楽団専属歌手と親友と言ってもいいジャズ・バンドのアルバムにだ。


12月初旬、早乙女に、11日夜会いたいがとメールすると、返信は、その日は


「ライブドローイングの仕事が入ってるんです。電通とサントリーの(缶コーヒーBOSS)のイベントで、えい出版が経営する渋谷LOFT内のカフェが会場です。Jazzがテーマのイベントで、最初はブラサキとの共演を考えていたのですが、ブラサキのスケジュールが塞がっていて、別のミュージシャンになったみたいです」

ライブ・ドローイングでも、売れっ子だ。


おっと、いけねえ、大事なこと忘れてた。

つい最近、早乙女と雑誌の仕事で久方ぶりにコラボした。

雑誌は『Discover Japan』、ラグジュアリーな旅行雑誌だ。以前、プロデューサーの方と箱根の旅館で一緒したとき、彼がぼくが構成した『ガリバー』の「80冊世界一周特集」号を持参していて、「こういうのを作りたいんです」と酒席で熱く語るのだった。

その『Discover Japan』から、生涯で一番好きな本について書くという依頼がきて、選んだのはウィリアム・バロウズの『シティーズ・オブ・レッドナイト』だったが、挿絵を早乙女が描いたらしい。

どんなページになってるか、まだ見てないのでわからないが、それが早乙女との最新の仕事だ。


あとは、新しくオープンする北品川のライブ・ハウス『sur's club』の垂れ幕を頼むつもりだ。








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