プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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「偶然」に司られた不思議な一日だった。
3月22日、品川の蓮長寺に実家の墓参りに出かけ、花と線香を供したあと、新馬場駅前の焙煎珈琲店にはいった。
アイスコーヒーを飲んでいると、マイケル・ジャクソンのあとにジェフ・バックリィーの『ハレルヤ』が流れてきて、突然、20年ほど前に故人となったひでのことを鮮明に思い出した。
ひでが亡くなったとき、毎日聴いていた歌だ。お彼岸の日に、それはふさわしい歌だった。
品川からバスで、西麻布に出た。
もうひとつ墓参りがある。交差点の路面花屋で花を買う。
永平寺への坂道の途中に、スイッチ・パブリシィングのビルが建つ。地下はブック・カフェ。スイッチ・パブリシィングの出版物が売られている。寄るつもりはなかったが、何か呼ばれるように足が地下へ向いた。螺旋階段を下り、店内で物色していると、『coyote』最新号の表紙に、内容を示すコピーが並び、そのなかの、
沖縄「美栄」の神髄
古波蔵保好の旅
を目にとめ、迷わず購入した。
開くと、古波蔵さんの晩年の、笑み全開のポートレイトが載っていた。本人が目の前に現れた気がした。追慕の感情がおしよせてきた。
古波蔵さんに引きあわせてくれたのはひでだった。ひでが六本木の古波蔵宅に連れていってくれた。そのときから、親交がはじまった。古波蔵さんは、80代なかばだった。
品川でひでの追憶にふけっていたとき、ぼくはひでと古波蔵さんとよく三人で過ごした日々も断片的に思い出していた。
そんな簡単には行けない、それこそ銀座の〈マキシム〉や高級なレストランによく連れていってくれた。
古波蔵宅では、昼にシャンパン&キャビアをごちそうになり、沖縄の古波蔵家が経営する琉球料理の料亭〈美栄〉にも何度か招待された。
首里のグランド・キャッスルで開かれた、古波蔵さんの米寿を祝う、それは盛大な宴席にも招いてくれた。
古波蔵さんは沖縄の名門士族の出身で、暮らしのすべてにおいて一流のダンディズムを貫いた貴人だった。
文筆家としても一流だった。しかし、偉ぶったところは微塵もなく、ぼくみたいな若造でも、友だちのように接してくれた。スノッブでもなかった。すべてが自然体だった。贅肉は皆無、長身・痩身に英国仕立てのスーツがおそろしいくらい似合う真の国際人だった。なんせ、1972年、第一回ベスト・ドレッサー賞受賞。たくさんのガール・フレンドがいた。
ぼくは古波蔵さんを心底敬愛し、仕事もさせてもらった。
旅行誌に著書の『沖縄物語』の書評を書いたとき、「こんなに空気感まで、よくつかんでるね」とお褒めの言葉をいただいた。
繰上和美さんに肖像写真を撮ってもらい、ぼくがインタビューし人物記を書いた。その写真はキース・リチャーズやピーター・フォンダの写真とともに男性誌の特集誌面を飾った。特集タイトルは「不良の面魂」。
機内誌に組んだ撮影・植田正治、絵・山川惣治による沖縄特集に何本もの随筆を書いていただいた。特集タイトルは「三人寄らば、文珠の沖縄」。などなど、いくつかインパクトのある仕事をした。
古波蔵さんは、毎日新聞の論説委員だった。
記者時代、1950年米軍統治下の沖縄に密航し、記事を書いたことにより、14年間、米政府は古波蔵さんの渡沖を禁じた。
ときどき、ジャーナリストの厳しい視点から日本史観を語ってくれた。
古波蔵さんは、明治以降、日本は道を誤ったと言った。
士族の風格を感じた。硬派だった。しかし堅物ではなかった。
ユーモアの感覚に溢れ、いつも笑顔だった。
古波蔵さんは琉球文化は中国からのものです、と言っていた。
ぼくは、古波蔵さんから、何を学んだろう?
どんな境遇にあろうと、人生を楽しむ気持ちをもちつづけること、かな。
何であれ、本物を知る、ことかな。
古波蔵さんはオペラを愛し、いつも前売り券を一年分、百万円ほど購入していた。古波蔵さんは〈アッブ・ダウン・クイズ〉に出演し10問全問正解した。
「僕は好きな仕事をして、好きな場所に行き、好きなものを食べ、好きな服を着て生きた。何も思い残すことはない」と語る。
古波蔵さんは好きなこと、好きなものをなにひとつ許されなかった暗黒時代にも、好きに生きた反逆者だった。享年91。
お彼岸に、偶然聴いた『ハレルヤ』とともによみがえったひでがまた古波蔵さんに引き合わせてくれた。
ぼくらが「偶然」と呼んでるものの正体は、何なのか?
メキシコのことわざに、「神は人間の計画を笑う」というのがある。
死者と生者を結ぶ「偶然」。
何かおおきな規律が崩れていく音を聴いた。
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残念ながら、手元にいっしょに仕事をした雑誌はない。見つけたら、ここにアップするつもりだ。代わりに、ダンディーな古波蔵さんの写真をのせた。白州次郎にも勝る日本一である。