森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

1960年代には一世を風ビしていた『平凡パンチ』も、1985年にはどん底になっていました。

誌名も『HEIBON PUNCH』と洋語になったのは、そのころ同じマガジンハウス刊行のメンズ・マガジン『POPEYE』『BRUTUS』が人気を博していたので、洋風にすればという発想です。

編集長は石川次郎さん。

1960年代に『平凡パンチ』のエディターとなり、以降『POPEYE』『BRUTUS』を創刊してきた名物編集長です。

1984年に、どん底だった『平凡パンチ』を復興すべく、編集長に就任。

その前は華の『BRUTUS』の編集長だったので、メイン・ストリームでいくつもスポットライトを浴びていた。

それが『HEIBON PUNCH』じゃ、完全に裏街道です。

かつて一世を風ビした分、余計、哀切極まる。

『BRUTUS』で働いていたフリー・エディターは誰も異動する次郎さんに随行しませんでした。

しかし自分は次郎さんに大変恩義があったので、『HEIBON PUNCH』で働くことにしました。

もう全然、トレンドじゃない。

今は「戦前である」と想定し、「戦前風俗画報」という連載をスタートし、アメリカン・タトゥー、ロリコン、他取りあげる頁をつくったり、フーゾク取材をやったり、やってもやっても部数は伸びず、落ちていく一方です。

もうやけくそ気味で編集をしていると、ある日、「韓国で一冊つくろう」と当時だと、余りにも突拍子もない企画が生まれてきました。

そのころ韓国は、まだ戒厳令下です。

取材もむずかしければ、日本のメンズ・マガジンに紹介するようなネタなんてあるはずもない。

「ここまで部数落ちたら、並みのことやったって復活しない。誰もやらないことやらなきゃ起死回生しないよ」

と次郎さんは煽る。

本人は行かないんですから。

で、結果、ソウルに取材チームが行って、一冊丸ごと韓国特集を制作した。

行ってみたら、面白かったネ。

米軍基地の町・イーテオにものすごくファンキーなナイト・ライフがあった。

市中のホテルにはすでにグローバルなDJクラブもあった。

東洋一と誇るタワーも建設中だった。

見るものすべておどろきの連続。

それまでどの日本のメディアもそんなソウルを紹介していない。

まだ遅れてはいるけど、「国際的だな」と印象をうけた。

しかし、撮影中に、KCIAにつかまって、あわや刑務所送りという危機はあった。実際、夜は戒厳令下だった。

相当な緊迫感はあった。

まだ日韓の政府も激しく摩擦していた。


そして、1985年の正月に、その韓国特集が発売されました。

発売と同時に、NHKの9時のニュースで取りあげられるくらいのスキャンダルとなった。

そのころ映画監督・大島渚がバカヤローと韓国を罵倒し、それに対し韓国の文化人が一斉に反発し、騒動に発展していた。

その期の『HEIBON PUNCH』韓国特集!

カバーは韓国人の若い女の子が明らかに挑発している写真。

これが「韓国をなめとるんか!」と韓国のインテリの怒りを買ってしまった。

そんなつもりは毛頭ない!

『平凡パンチ』はサブ・カルチャーを取材する若者雑誌だったが、創刊時からヌード写真はもうひとつの売りだったのである。

女の子を美しいと思うのは世界共通だ。立派な文化だ。

だけど、1985年当時は文化意識のギャップは激しく、国際騒動に発展しそうだった。

自分は特集の構成者として、制作者クレジットのトップに名前がおかれていたので、NHKのニュースを見た友人たちが、「お前、殺されるぞ」と電話をかけてきた。

結局、大事にはいたらなかったが、この号はNHKのニュースの力もあって、3日でソールドアウトという大ヒットとなった。

売れ方が尋常ではなく、営業の人がいうには80万部だしても完売してたねという勢いだったらしい。

一発で起死回生を果たし、石川次郎は次に新しく『TARZAN』を創刊すべく『HEIBON PUNCH』を去っていった。


このとき韓国に行くと荒俣宏にいうと、それなら絶対に四柱推命の権威者に会うといいとアドバイスをしてくれました。

ソウルで権 勢俊先生に会った。

四柱推命は韓国では予想科学ともいう。

1985年の日本の運勢を占ってもらった。

何月に何が起こるか?

すべて具体的に当たっていた。

一番は、大型旅客機の墜落。

JALの、悲惨な墜落事故を、その月まで予言していた。

自分の運勢も先生に見てもらった。

当たっていた。

権先生とはそれ以来仕事を20年近くつづけた。

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