森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

角川春樹と。



『本の雑誌』の宮里君が訪ねてきて、角川春樹さんの特集組むんで、コメントとらせてください言われ、思い出すことを語った。


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角川さんと仕事をしたのは80年代の初頭の数年間だ。


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そのときの強烈な思い出が、送られてきた『本の雑誌』の角川春樹特集号に掲載されていた。

特集タイトルは「角川春樹伝説!」。

「死ぬまで現役の編集屋」と宣言するロング・インタビューのインタビュアーはツボこと坪内祐三。

角川春樹がアメリカのカルト的な小説を角川文庫で出版していたころの話が抜群に面白い。

編集屋・角川春樹の才覚は本物である。

作家が無名であろうが関係ない。

秘めた才能を見抜く力は、薬師丸ひろ子のカリスマ力まで見抜く。

編集屋には、多分、この嗅覚が肝心なのだろう。

角川春樹は、ぼくが自伝に書いた「サワラの鼻先」を見抜き、的確に仕留めるハンターなのだろう。

考えてみたら、ロックンロール・カルチャーのバイブルとなった片岡義男『ぼくはプレスリーが大好き』の編集者は角川春樹だった。

片岡さんは一部のマニアックな読者しかいなかったが、角川文庫でいっぺんに30冊近くが刊行され、うち『スローなブギにしてくれ』の映画化により大衆的な人気を獲得した。       角川さんらしい仕事である。

そこには察するに絶対的信頼が前提として存在するようだ。


角川さんを紹介してくれたのは桑原茂一であった。

 茂一が、このプロフィール42でも書いた『ブルータス』の特集を読んで電話してきた。

角川さんのもとで、映画を制作することになって、いろいろシナリオを書いているのだが、協力して欲しいとの要請を受けて、書いたのはいいが、映画制作は中断、その代わり、カセット・ブックを制作することになった。

その編集を依頼され、アシスタントに沼田元気を起用した。

そのころ沼田は公私にわたり、いつもそばにいた。


カセット・ブックが完成し、ベストセラーになると、角川さんからお呼びがかかり、平川町のステーキ屋で今後も何か仕事を続けてくれないかと話を受けた。

吉田拓郎のエッセイ集や詩集など文庫本の編集をした。


ある日、知己ではあった山川惣治氏から訳あって何十年ぶりに再活動したいので、ひと肌脱いでくれないかと頼まれて、角川さんに相談を持ちかけた。

まずは『少年ケニヤ』『少年王者』など過去の作品を文庫本で復刊いたしませんかと提案すると、「新作を描けるなら、権利を買う」と条件を出され、山川さんに確認すると、描きたい新作はあると意欲的であった。

そのころ山川さんは80代半ばだった。


角川文庫版『少年ケニヤ』全20巻毎月刊行の復活の大プロジェクトが角川春樹総指揮の元、僕が山川惣治のマネジャー兼編集責任につきスタートした。


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それは出版と同時にアニメ化、さらにマーチャンダイズへと拡大。

アニメ化にあたっては僕が大林宣彦氏に会い、監督初のアニメ作品をお願いし、その場で快くうけていただいた。

原田知世が初の声優に挑戦し、渡辺典子が主題曲(宇崎竜童・阿木燿子)を歌った。


山川さんは創刊した文芸誌『小説王』に武田泰淳原作の『十三妹』の描きおろしを連載した。


そのころ、ぼくは32、3歳であったが、沸騰するマス・カルチャーのシーンで、すべてが経験したことのない活動の連続だった。


角川春樹という真に出版界の風雲児であった編集屋と、山川惣治というの劇画の始祖にして、かつてすべての少年を熱狂させた大作家のもとで、自分は何を学んだのか?

それは、世代を超えた仕事の醍醐味であったと思う。


山川さん、明治41年生まれ。

角川さん、昭和17年生まれ。

ぼくが昭和25年生まれ。


ここには書けないが山川惣治も破格の不良であった。

80代を過ぎても不良であった。






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