プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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ビョークのアートワークでワールドワイドな評価を得た英国のクリエーターチーム〈ME COMPANY〉。
スキンヘッドのチーフ・デザイナー、ポール・ホワイトと会ったのは1991年のことだった。
そのころまだ〈ME COMPANY〉は駆け出しで、英国の仕事に恵まれず、ポールは単身、安いチケットで東京に仕事を探しに来た。
東京で作品のファイルを抱えて売り込みをつづけていくうちに、知人のY氏のもとにたどりつき、Y氏は彼のために自身がプロデュースしていたバンドのCDジャケットのデザインの仕事をまわしたが、彼のためにもっと仕事をつくってあげようという親切心からぼくに連絡があった。
ポールと会うと、とてもシャイな性格の人物で好感が持てた。
ロンドンのデザイナーと仕事をいっしょにやるのも刺激になるだろうと、『03』という雑誌の仕事で組むことになった。
結局、『03』では2回組んで仕事をしたが、1度目は湾岸戦時下の米軍基地の街・福生の特集でポールにエディトリアル・デザインを依頼した。
通常、雑誌のデザインは専属のアート・ディレクターが必ずいて、全頁手がける慣例になっているが、『03』ではその特集だけ完全外部のデザイナーであるポールにまかせることが許された。
担当エディターは現『新潮』の名物編集長・矢野優だった。
テキストの執筆は佐久間明聡。写真はM・S・パーク。ぼくはディレクションを担当した。
巻頭ページのリードに特集のテーマを表明した。
〈中東とリアルタイムで結ばれた米軍横田基地を抱え込み、東京から伸びる鉄道と16号線に貫かれる福生―かつて静謐な転地療養地だったこの街は、戦場行き戦闘機のノイズとヒップホップのブラック・グルーブに覆われ、今日も陸路で、そして空路で“戦争”と“欲望”が流れ込んでくる。そう、福生はまんま『ミステリー・トレイン』であり、『ドゥ・ザ・ライト・シング』だ〉
テキストと写真だけでは、このリードに描いた街を表現しえないと思ったのだろう。といってイラストレーションでもカバーできない。そこで、福生とまったく関係ないが、ロンドンの若いデザイナーのとんがったグラフィック・アートを導入することによって、斬新なノンフィクションを創造しようとしたのだった。
全14頁の特集のうち、6頁をポールのアートワークに割いた。全体16頁のデザインもポールが担当したが、それは特に目新しいものではなかった。
ポールは3点の作品をつくった。
うち2点“Soul Sister Ecstacy”と“Brother Power”と題された作品は、その後頭角を現してゆく“ME COMPANY”の力量を感じさせた。
そのころポールは、まだ貧しくて、東京ではホテル代を節約するため、知人のアパートに居候していた。
2回目は、やはり『03』で、アイランドをテーマにした特集制作のために、いっしょに八丈島へ取材に行った。
あるトラベル・マガジンの50頁程の特集のADをポールにまかせようとしたがさすがそれは専属ADの了解を得れず、実現しなかった。