森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

タケ先生と。



PA卓の背後にセッティングされている特別席に遠目にタケ先生を思わせる方がいらして、ライブのスタートとともに、その方は席から立ち上がり激しいビートに生々しく全身で反応している。

年のころ、70代、なのにルードボーイを想わせるナリをしている。


ステージに立つのは布袋寅泰。ロンドンから三人のプレイヤーとともにやって来た。ロンドン仕込みのビートは一級だ。五臓六腑まで直撃する。


公演が終了し関係者ゾーンに降りてきたタケ先生らしき方はやはりタケ先生だったので挨拶はしたが、人にまみれ、よく会話できなかった。

その夜はバンド・メンバーやごく親しい人たちのプライベートな打ち上げが六本木の焼き鳥屋にセッティングされていて、招かれて行くと、そこにタケ先生も現れた。激しく雨の降る夜だった。


実は、前日、中村モン主催の70年代をテーマにしたトーク・ショーにタケ先生は出演する予定になっていて、すでに広報活動も進んでいたが、突然、タケ先生は出演を取りやめてしまった。

というのも、先生はその日、矢沢永吉の公演に行くつもりであったのに失念、トークの依頼を受けてしまった。

しかし、タケ先生はどうしても矢沢を見たくて、トークをドタキャンしたと町の噂になっていた。

やるなー、タケ先生!

その翌日が今度は布袋だ。

まるでロックンロール・キッズの生活だ!

こういうことをWild at Heartというんだ!


焼き鳥屋ではタケ先生と隣り合わせで座り、はじめて、2時間ほど、まるでトークショーのように70年代やロンドンやロックやアートや不良などについて熱く語りあった。

かつての〈BIGI〉は、街にあって、ローリング・ストーンズのような、メイン・ストリートのならず者であった。ショーケンも矢沢も、その圏内にいた。


1970年代はじめ、表参道にあった〈BIGI〉のショップで、あきらかにロンドン・ポップの影響とわかるテカテカのケミカル生地のアロハシャツを買った。

ロンドン製のアロハといったアロハらしくないアロハ。肩にかすかなパットがはいっていた記憶がある。

その話しをすると、タケ先生は「はっはっは、そうですか、あれ、買いましたか」と愉快そうにおっしゃった。

「それで、細身のパンツに靴はコンビの底厚のを」

「そう、そう。コンビの靴ね」

「髪はリーゼントですね。ロキシーな感じ」

ロックの話しになり、ぼくはやはり、ロキシー・ミュージックの『アヴァロン』が最高だと熱弁ふるうと、ロキシーは好きですから先生は聴いてみるとおっしゃった。

難しい話しはしない。

10歳は年上なはずなのに、随分と気楽な対話であった。


それから二ヶ月ほど経て、芝浦の〈斬鉄軒〉で久しぶりに森永会をもった。

以前は高浜橋たもとの〈はるみ〉を利用していたが、〈はるみ〉閉店により集う店をなくし空白がつづいた。

それが、以前から店の存在は知っていたが、入ったことのない〈斬鉄軒〉に寄ってみたら、そこに〈はるみ〉の常連であったムード歌謡シンガーのアイちゃん、坂本龍一を「坂本」と呼び捨てにする倉庫会社の佐々木さん、青森弁のアキチャン、東京地裁の書記の高瀬さんらも来ているのを知り、ワンちゃん連れで通うようになった。

女将さんは熊本出身だ。


そこで、森永会をもった。路上に席をつくり、六人ほどで抜群のおでんや屋台風チャーシューを肴に飲むうちに、タケ先生との一夜の話しをすると、メンバーのスーさんはタケ先生の創業時からの側近なので、タケ先生の話しになり、先生は子供のころ一度死んでるんじゃないか、アパレルのデザイナーのなかで唯一不良だ、もしかしたら虚無を感じてるようにも見えると、それぞれタケ先生観を語りあった。


タケ先生とは直に仕事をしたことはないが、絶えず、リスペクトの想いを抱いていたので、〈TAKEOKIKUCHI〉の仕事を受けて原稿を書いたり、日本版『エスクァイア』に菊池武夫論も書いた。


「タケ先生」というとき、この「先生」という呼称のどこにも権威的なニュアンスはなく、死ぬ間際にもストローでシャンパンを飲んだ「阿房」の(内田)ヒャッケン先生に通じる洒落っ気がある。


ぼくらは、ものすごく、その世代の先輩たちに感化されたのである。

太平洋戦争を幼児体験した、その先輩たちは、いまも、天上天下唯我独尊を生きている。そして、虚無を知るがゆえに、刹那を生きる道を歩んでいる。


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