プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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下北沢95'
小笠原から上京したノリツグと雨降る下北沢の路地を歩いていた。
ノリツグは若いころ下北沢に暮らしていたという。
ぼくも1972年ころに、短期間だが、ガールフレンドと暮らしていた。
いまは大変な人の賑わいだが、当時は道ゆく人も少なく、店もたいしてなかった。
下北沢のことには自伝で触れた。
渋谷から下北沢へと気持ちがシフトしていく背景を書いた。
いまの下北沢は、ぼくが知る下北沢ではないが、決して車に支配されない路地の町はそのまま。
〈フーチークーチー〉や〈フリーファクトリー〉といった知人が経営する店もある。
この町の思い出はいくつもあるが、一番はタウンホールで開催した『Life as Rock』だろう。
いまを遡ること、ジャスト! 20年前!
友人であった故・大口ヒロシから、「相談したいことがあるんだけど」と電話がきたところから物語ははじまった。
だいたい、一本の電話から、ドラマははじまる。
それで、大口ヒロシと白金のレストラン&バー〈ケセラ〉で会った。
彼は好物のドライ・マティーニをたてつづけに何杯かあおったのち、用件を語りはじめた。
ちなみに、そのとき大口ヒロシのためにドライ・マティーニをつくったバーテンダーは現〈新世界〉のオーナーの一作だ。
相談したいこととは、下北沢のタウンホールを借りられることになった。コンサートを、やりたいので、プロデュースしてくれ、という。
「いいよ」
と、軽く受けてしまった。
「別に、儲けなくていい。赤字にならなきゃ」
大口ヒロシとは顔見知りであったが、そのころ、布袋寅泰のコンサートで会い、コンサート終了後ふたりで飲みに行き、意気投合! それから毎晩のよう会い、お互い好きな音楽を語る仲になっていた。
その親交は、ムッシュが「仲良いね」と呆れるほどの親密ぶり。
メインのバンドは大口ヒロシがメンバーを集めた。
以下、メンバー。
大口ヒロシ、グリコ(ドラムス)
加部正義(ギター)
篠原信彦(キーボード)
鈴木ミチアキ(ベース)
かまやつひろし(ボーカル)
三四郎(サックス)
ヒロ(ブルース・ハープ)
他に、ぼくの方で北沢夏音に声をかけ、前座バンドとしてザ・ヘアーの出演交渉をお願いし、DJはU・F・Oの矢部直やイギリス人のジェームズ、、全員、ノー・ギャラで出演してくれた。
さらに西麻布の人気バーであった〈アムリタ〉に依頼し、バー&フード・コーナーを設置した。
また、当時人気DJバーであった〈バー青山〉のオーナー、矢矧さんの指揮のもと、〈バー青山〉に出入りしていたアーティストたちが、フロアーにライブの最中、巨大なインスタレーションを創作した。
当日、いくつかのハプニングがあった!
ひとつは、バンド演奏中、客できていた元ルースターズのドラマー、池端潤二が飛び入りでステージにあがり、大口ひろし✖️グリコ✖️池端潤二のドラム合戦がはじまった。
さらに、やはり、客できていた中国人アクターの修健が飛び入りでステージにあがりマイクに向かって中国語のラップを披露した。
さらに、ステージの真ん前で矢矧さんたちが築いていたジャンクのインスタレーションがどんどん大きくなり客席からステージが見えなくなっていった。
そんなことが連続しても、ステージ上のミュージシャンたちはいっこうに気にせず、凄まじいビート・ミュージックを黙々と演奏し、異様な空気がホール内に充満していった。
客席には、〈ハリウッドランチ〉のゲンさん、〈ヨシダカバン〉のカツさん、まだTVディレクターであったテリー伊藤、スタイリストの山本コーイチローら渋谷東のアンダーグラウンド・バー〈カスバ』の常連客たちがいた。
そのバーの名物ママの玲子も、加部正義の熱烈なるファンだったので、当然いた。
全体、何で結ばれているかわからないが、ひとつのトライブといった様相だ。
ひとつわかるのはゲンさん、カツさん、テリー、〈アムリタ〉のオーナーのサンペイ、DJの矢部君は翌年刊行されることになる『ドロップアウトのえらいひと』に登場するアウトサイダーたち。
他のミュージシャンも、矢矧さんたちも、来場者たちも、みんなそんな生き方をしている人たちだ。
ぼくがそのコンサートで望んでいたことは、「混然一体」だった。
表面的には差別的なボーダーはなくなったものの、世界は国家、宗教、貧富、人種などで区別するボーダーで分断され、到底、ワン・ワールドには程遠い。
せめて、町の文化だけでも、いっさいの区別をなくしたい! そう、激しく願う自分がいた。
そのころ、なんの根拠もないが、世界が崩壊する予感にとらわれていた。
まだ、ノストラダムスの予言下にあったわけではない。
しかし、予測もできなかった事が、一年後に待ち構えていたのだった。
神戸の震災とオームによるサリン・テロである。
そんな空気が手描きで制作したチラシに露呈している。
やらずにいられないような衝動に身をまかす。
最低限のことさえ守れば、あとは自由!
フリー・プレイ! バンドも好きなだけやればいい。
フリー・マイク! 飛び入り、歓迎。
フリー・アート! バンドの音にのって、造形し放題!
フリー・パス! 出入り自由。
それは、たくさんのことを確認するためのコンサートだった。
のちに出演者たちから、「やってて、あんな面白いコンサートはなかった」と言われた。