プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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1989年、天安門事件が勃発した。それは全世界に衝撃を与えた。
歴史が軋む音を聞いた。
開かれていた中国は政治的な障害により再び閉ざされていった。
1991年、旅行雑誌『ガリバー』で中国特集を組むこととなり、ディレクターをつとめた。全70ページ!
それも雑誌史上初の全土を巡る旅だった。
上海から西安。西域へ飛んでタクラマカン砂漠のオアシスをめぐり、そこからパキスタンの国境近くまで。ふたたび西安に戻り、一気に南下し雲南省のクンミン、ベトナムとの国境の村シーサンバンナ。さらに南下し海を渡り海南島へ。大陸に戻り、北京へという長大な道程だった。
やはり、ファッションは外せない。
そこで、物語を考えた。
『私を野球に連れてって』という名画のタイトルを引用し、ホイチョイ・プロダクションは『私をスキーに連れてって』を制作した。われわれは『私をチャイナに連れてって』。
その「私」は当然若い日本人女性。
案内人は同世代の中国人。
女性は奔放なキャラで人気のあった松本小雪をキャスティングした。彼女とは、すでに仕事をいくつかしていて、文章を書く才能を認めていたので、モデル兼ライターを依頼した。かなり条件の厳しい長旅になりそうだった。辺境にはトイレも無いに等しい。
「どう、平気?」と聞けば、
「ぜんぜん、平気」
それで、決まりだ。
中国人は日本に在住していた中国人俳優・修健をキャスティングした。
問題はコーディネーターだった。まだ辺境まで手配できる専門家は不在だった。
そのとき、まさに天の配剤か、編集部に李長鎖が訪ねてきた。『ガリバー』の中国語版を刊行したいという話を持ってきた。その話はまとまらなかったけど、中国取材の企画をふってみた。李が中国全土にネットワークされている写真家の組織を使えるというので、コーディネートを依頼すると李は快諾してくれた。しかも旅に随行してくれるという。願ってもないことだった。
ファッションはそのときの編集長だった石川次郎が懇意にしていた荒牧太郎のパパスに決まった。荒牧太郎自身がコーディネートをした。他にタイアップとしてハンティング・ワールドのバッグも撮ることになった。
メンバーはディレクターの自分、写真家の菊池和男、コーディネーターの李、モデルの修に小雪の全5名。すべては順調にセットアップされた。
ところが、大問題が突如発覚した。この企画を聞いた小黒一三が電話してきた。
「森永、中国に修連れてって大丈夫かよ?」
「なんでだよ」
「あいつ、イエロー・リストのトップにあがってるんだぜ」
「なんだ、イエロー・リストって?」
「あれだよ、天安門事件のときな、修は中国大使館に抗議のデモしてんだよ。でな、中国じゃ首謀者は逮捕して投獄だよ。日本だと逮捕するわけにいかねえだろ。でも修は役者で発言に影響力あるから要注意分子としてマークされてんだ。それもリストの上位のイエロー・リストだよ」
「何が、ヤバイ?」
「そりゃ、お前、日本じゃ逮捕できないけど、中国行ったら空港で逮捕だろ。俺、裏から事情通に確かめたら、間違いなく逮捕されるってよ」
小黒との話しの途中で胃がしめつけられていた。
主役の逮捕、場合によってはわれわれは強制送還。
修に確かめると、イエロー・リストの事実は認めた。
「で、どうなん?」
「行く」
予想される最悪の事態を石川次郎に伝えると、いまの管理職なら、厄介事は避けたいだろうから、即中止を決定するだろうが、そのとき次郎さんはなんら困惑した表情も見せず「面白い。行けよ、行け」とけしかけるのだった。
こうなったら、賭けだ。
修が一番プレッシャーに耐えなければならない。
何も守ってくれるものはなさそうだ。
上海に飛ぶ旅客機の中で、修だけでなくわれわれも沈黙していた。上海が近ずくにつれ、修はこれ以上ないというほどの深刻な顔になり、両脚を貧乏揺すりか、恐怖からの感情の揺動か、小刻みに震わしている。
しかし何事もなく入国できた。拍子抜けした。空港施設を出て、外の空気を吸い込んだ修は役者の演技のように「これだよ、これ! ふるさとの空気だよ!」と両手を大きく広げ、叫んだ。
それは、春の土ぼこりっぽい空気だった。修は生粋の北京っ子。それも日本でいえば銀座にあたる王府井の生まれで、そんな空気にふるさとなど感じるはずはないんだがな?
逮捕されず無事故国の土を踏んだ喜びから、その感動を、そんなセリフで表現したのだろうか?
しかし、 入国はできたが、不安は去ったわけではない。
修を泳がせておいて、出国時に逮捕の可能性もある。それを思うと気は重い。
一ヶ月に及ぶ旅だ。
上海から西安へ。移動して行く。都市に面白味はない。
タクラマカン砂漠のウィグル自治区へ移った。
そのあたりから俄然咸興がわきあがってくる。
漢民族文化圏を脱出し、イスラム文化圏に入った。完全異文化である。民族は遊牧民だ。衣食住すべてが、異なる。食は羊が主食だ。
区都ウルムチは都会だが、町の随所にシシカバブの屋台がある。街に見る男たちは彫りの深いアラブ系の顔をし、瞳は青い。
砂漠を越えてオアシスのトルファンへ、あちこちに葡萄園があった。
『西遊記』の舞台となった火焔山という赤い砂漠は火星のようだった。
民族服を着たエキゾチックな踊り子たちと砂漠に行き宴を開いた。
夜空は宇宙空間そのものだった。イスラムの寺院の尖塔は三日月、太陽、地球をかたどっていた。日に何度もコーランが街に響き渡った。老人は古代の神を思わせた。
行く先々で李が手配した芸術家にあった。イスラム文字の書家、画家、写真家。写真家からは幻想的な作品を借りた。エキゾな文字も書いてもらった。絵も。毎晩彼らと会食した。杯を交わした。歌いあった。
パーティとは、こういうことなのか、という華やいだ集いだった。
大陸では一期一会の時間を大事にする。彼らは本気でもてなしてくれる。酒、料理、歌、踊り。
まだ、ウィグル自治区には「シルクロード」と呼ばれた砂漠の文化が豊かに残っていた。遊牧文化が生きていた。
さらに西へ移動し、カシュガルに入った。すべてがイスラム色のオアシスだ。ここからヒマラヤの裏の山脈をパキスタンまで貫通する古代シルクロード=カラコルム・ハイウェイに車を走らせたが、舗装もされてない悪路だ。
行けども行けども何もない。村落もない。緑もない。
山の中に砂漠が広がり、何処にも村などないのに、まるで砂のなかからはいでてきたかのように人とラクダが出現する。『デューン』だ。
高度は4000メートルを超えている。人は極限的状況であってもラクダがいれば生存できるのか?
パキスタンの国境近くにタシュ・クルガンというちいさな集落があって、そこに中国西果てのホテル〈パミール・ホテル〉があり、宿泊した。近くのK2など7000、8000メートル級の山を目指す登山家の中継地のようだ。
ホテルの人たちはトルコ人のようだった。
そこが、われわれにとって極限地だった。
旅は南へ向かった。西安経由で雲南省の省都クンミンへ移動した。湖のある高地の町だった。
湖畔の林のなかで地元の若者たちが英会話の集いを開いていた。その秘密めいた光景はSF映画『華氏451度』を想起させた。
頂上まで水田が築かれた山岳地帯を車で2日かけて越え、仏教系少数民族の村シーサンバンナに移動した。
市場を訪ねると手の込んだ美しい民族衣装で着飾った娘たちがいた。彼女たちはタイ族、ハニ族、ミャオ族だ。坊主の仏教徒たちの姿も多く見た。
そこはアジアのふるさとのような村だった。メコン川を船でさかのぼりミャンマーとの国境の村カンランバまで行った。
西域はイスラム系の父系社会だったが、シーサンバンナは仏教系の母系社会だった。
南方の文化に触れ、その気分で海南島に飛んだ。まだ海賊がいるような島だった。誰もいない美しいビーチがあった。漁村ではただみたいな値段でロブスターを食べられた。完全、そこは楽園だった。
結局、無事帰国した。
李の親族に最高権力者の側近がいて、修に関して処置しないよう、李が手を回したのではなかったか。
この旅の最大の収穫は李との出会いだった。中国取材の最強のパートナーを見つけたのだ。李は写真家だった。
その数ヶ月後、『翼の王国』で、再度ウィグル自治区の神峰に李と入って行った。旅を通した中国人との交友がはじまった。ひとりの中国人との出会いは、ぼくをディープな世界へとひきずりこんでいった。