森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

思い出してみれば、

人はまだ若いころ、

周りを見回してポツリポツリとしか人影がなかったように思う。

喋る相手がいないから、

暗い夜の中で、

淋しい独り言みたいな歌を歌っていた。

それがだんだん友達ができ、

仲間が増えて、

慰めてくれたり、

いっしょに笑ってくれたりするようになる。

幸せが好きになり、

不幸の匂いを忘れていく。

そして私たちはいつか老いはじめ、

一人二人と人影が少なくなっていくのに気づく。

独りで生まれてきたことを思い出し、

独りで死んでいくことに思い当たる。

そんな冷たい気持の中で、

もう一度不良になれるかどうかが、

たぶん人の一生の、最後の瀬戸際かと思う。

・・・・久世光彦



久しぶりに田名網サンとお会いした。

『Tanaami Tee × 100』――アート界の魔人!田名網敬一が新たに仕掛けるTシャツという名の爆裂弾!!

が開催されている会場〈valveat81〉に初日、田名網サンをたずねた。

Tシャツ100枚をキャンバスに見たてて、新作100点を主にシルクスクリーンで制作するという、とんでもない企画だった。

グラフィック・デザイナーというキャリアを持っていた田名網サンの、その60年代のポップ・アートとサイケデリック・カルチャーに深く根をはるセンスが、キャッチで語るごとく、爆裂弾!!したエキジビジョンだった。

60年代に田名網サンはキャンバスに油彩という古典的絵画手法に反旗を翻すかのようにポスター・アート(複製)を表現の主舞台にした。

田名網サンはポスターで「反戦」を訴え、1968年にはアメリカAVANT- GARDE主催の“反戦ポスター・コンテスト”に入賞し、1970年には代表作が『ポスターの歴史』(THAMES AND HADSON社)に収録されている。

今回の展覧会は、ポスターからTシャツへ、媒体を変え、田名網サンが得意としたポッピィズムの大復活を想わせる。

そのせいか久しぶりにお会いした田名網サンは、なんと6時からはじまったオープニング・パーティーに来た300名程のファン、友人・知人を終始ニコニコ顔で迎え、その後、2次会のレストランでも女性たちと歓談、さらに関係者たちとバーに流れ、おひらきになったのは深夜1時をまわっていた。

自分はずっと田名網サンの横に座り、話に興じていたが、そこでは絶対に芸術論、業界話は話題にでない。

話題は、とにかくバカ気た、時に下ネタもまじえ、ムダ話に限られる。それが田名網さんの流儀だ。

その旺盛な創作活動はむかしと何ら変わることはないが、酒席の田名網サンもまったく変わらない。人を笑わせ偉ぶるところがひとつもない。

田名網サンとは一昨年、共著という怖れ多い型で、本格的伝記『幻覚より奇なり』を刊行した。およそ2年かけて制作し、その間、東京、京都、香港、シュトゥットガルド(ドイツ)で、よくいっしょに旨い物を食べ、酒を飲んだ。

70年代の中頃から田名網サンと仕事するようになり、年令は10歳以上も離れていたが、よき飲み友達となった。

そのころのことを田名網サンは『幻覚より奇なり』の後書きで回想していた。

深夜十二時、私はいつものように新宿二丁目でタクシーを降りる。「アイララ」と表示されたバーの扉を開けると入り口近くまで人が溢れ、身動きできないほどだ。

酔客をかきわけ奥に進むと紫煙と酒の匂いが充満したテーブルで、トロンとした目付きの森永博志が手を振っている。

今頃になって考えると、自分で呆れるほどの長い夜をアイララという異空間で過ごしたことか、そのほとんどの時間をつかず離れずの距離で付き合ってくれたのが森永である。

これといった記憶に残る会話もなかったし、喧嘩をするほど過激な言い争いもしなかった。ただ酒を飲み踊り、内容のない無駄話に終始していた。

あの喧騒の日々がまるで夢の中の出来事のようにぼんやり霞んで見える。

一九七八年、新宿という怪物が高熱にうなされていた頃である。

偶然とは怖ろしいものだ。『Tanaami Tee × 100』展の数日前、スタンダード通信社の伊藤サンに誘われて、そのアイララに行った。なんと、30年程ぶりだ。アイララは健在し、あのころと同じようにサンバが流れていた。ママは2代目のソノミになり、伊藤サンと3人で昔話になった。中上健次氏の思い出を伊藤サンが語る。70年代の終わり頃、アイララの常連客だった中上健次氏はB・マーリーに心酔し、B・マーリーの曲を流さないと怒りだし、店の者にビールビンを投げつけていたという。

そんな時代、毎晩のように田名網サンとアイララに行っては飲んでいた。

田名網サンは“あとがき”に、さらに書く。

「森永と私は、そんな連夜の酩酊をものともせず幾つかの仕事もした」

そのひとつが、ぼくが編集について制作した『田名網敬一のシネ・マーケット/人工の楽園』(八曜社刊/1978年)だった。

1965年から1978年まで、田名網サンが個人的に制作してきた実験映画、30作品を網羅した単行本だった。

解説文を依頼するために田名網サンといっしょに小野耕世氏やかわなかのぶひろ氏らを訪ね、林静一氏との対談の場をセッティングした。

『スーベニール・ショップの練像術師の追憶』――舌は映写機のように回る。その夜、田名網敬一と時計仕掛けのUFOに乗った――と題したロング・インタビューも行った。

まさに「酒と編集の日々」だった。

高熱にうなされていたのは新宿だけでなく、毎晩徘徊していた我々もだった。

あれから30数年経って、新宿も時代もすっかり変わってしまったが、我々は高熱にうなされたかのように、田名網サンの自伝を制作した。その日々も、「酒と編集の日々」となった。

飲み、食べ、旅し、話し、書き、描き……精魂つかいはたした。

2010年の春にはシュトゥットガルドの美しい庭園のベンチに、ふたりしてボンヤリ座っていた。世界で我々だけがまだ高熱にうなされているかのような、思わず笑いたくなってしまうような呑べえの旅人ふたり……。

久しぶりに青山のギャラリーで会った田名網サンは、70年代のころより精悍に見えた。

3次会のバーで、「森永クン、6月に上海で個展やるのよ。うまい物、食べに来ない」と誘われた。変わってない!

1979年制作の本と2010年制作の本を並べると、そこに30数年の時の隔たりを感じないのは、そういうことか。

そんな田名網敬一に最大敬意を払い、オマージュを書いた。

田名網敬一はいまもサイケデリックの火焔を吐く活火山だ!

田名網敬一は千の手の平に千のドクロを持つ観音様だ!

田名網敬一は生誕と同時に幽体離脱した金星王だ!

田名網敬一は聖杯のヴァンプたちと不夜城で踊りつづける貴公子だ!

田名網敬一は犀の如く、草食系の野獣だ!

田名網敬一は60年代建立の快楽殿の最後の司祭者だ!

田名網敬一は幻覚シネマ館の活弁士だ!

田名網敬一は一度も群れたことのない惑星猿だ!

田名網敬一は背徳のロック・バンドの楽屋に唯ひとり招かれる貴賓だ!

田名網敬一は妄想力発電所の不眠不休の技師だ!

田名網敬一は2次元の彼方に5次元のレインボーを架けたフューチャリストだ!

田名網敬一はこの世の空白を塗りつぶす無法のグラフィッカーだ!

田名網敬一は芸術の無政府主義者でありつづけるアウトサイダーだ!

田名網敬一は100枚のTシャツをキャンバスに見たてた最初で最後のポップ・アーティストだ!

そのオープニング・パーティーで一に驚いたことは、来場者数の数も記録的だけど、ひとりの若者のことだった。

彼は田名網敬一を崇拝するインドネシア人で、師事したく、ジャカルタから田名網サンが教授職につく京都造形芸術大学に留学したという。

その道を志す、まだ無名の若者たちに支持されてこそ本物だ。


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