プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)
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それは突然目の前にあらわれた。それはぶあつくファイルされた紙の束であったが彼にとっては宝ものであることが「森永さんが書いたものは集められるかぎり集めてます」という発言からもつたわってきた。
土砂降りの雨の夜、四谷駅で電車をおり中国人の修が指定した地点に急いだ。まるで犯罪映画のいちシーンのように雨降る路上で修と会い地下の魚料理屋に落ち着いた。ここの主人は漁師なので魚は新鮮だよと修おすすめの店で、修は中国人ののりで注文する。日本人の二倍、三倍、「たのみすぎじゃねえか」と口をはさむが「食べるよ」と気にもとめない。
iPadにうちこんである映画の原案第三稿を見せる。黙々と彼は読む。何の感想もなく運ばれてきた料理もひたすら黙々と食べ次々追加注文する。
路上で会ったのは6時30分。黙々と2時間過ぎ店を出ると雨足は激しさを増している。
タクシーがつかまらない。新宿通りで濡れねずみになったころ空車がやってきて乗り込んだ。高田馬場に向かった。
車内で修と話し今回、彼は中国での配信用の洋画を買い付けに北京からきたと知る。ハリウッド映画以外の第三世界の作品をふくめマイナーだけど優れた映画を中国人に見せたい。そういう映画クラブを設立したと聞く。東京で洋画の配給権を買えるらしい。
修から今回の映画制作の話がきたときコメディーと聞き、こんなのどうか? とアキ・カウリスマキの『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』を推薦したら彼は早速ビデオで見て「素晴らしい!」と北京から感想を送ってきた。今回、シノプスはちょっとシリアスに傾いたか。書き直すか。
雨は降りつづきレトロな造りの映画館の前でタクシーはとまる。向かいのビルの4階、秘密パーティーの会場を見つけた。靴を脱いであがるマンションのワンルームの一室がバーになっていて今夜のショーのために用意された座椅子が並んでいる。ビールをたのむ。客は5、6人だ。
修は東京にくるとかならず六本木瀬里奈に行くという。今回も中国人たち10人ほどで行き大金を散財したらしい。今度、蟹しゃぶ食いに連れてけよといってみる。あそこはむかし東京に外タレがくると呼び屋が接待につかってたんだよと修にいってみたが反応はない。気どったキャンティー物語よりピカレスクな瀬里奈物語のほうがきっと面白いだろうな。
ハードロックにのってセクシー・ショーがはじまった。その最中にiPhone4にショートメールがはいる。CIAからだ。ぼくのファンという人がはるみにきてます。いま、何処ですか? 高田馬場です。返す。了解。くわしくはママから聞いてください。CIAより。終了。
イッツ・マイ・ライフ!とボン・ジョビが歌い八頭身美女が腰を振っている。
突然40年ほどまえの六本木クラブ88を思い出す。そこの舞台にたってバー・レスク・ショーを披露していたのは暗黒舞踊師土方巽の門下生だった。あのころはよく街で、そういうアングラ界に生きる女の子といいなかになった。クラブ88のマネジャーは李と名のる中国人だった。早死にした。
雨の夜から数日後ーー高浜橋はるみに行く。店に訪ねてきた者がメッセージをおいてきましたとママから紙切れを渡される。それに自分らは森永さんのファンです。自分は編集者で連れはPR関係の仕事についてます云々、携帯の番号が記載されていたので連絡し土曜日に会うことになった。
約束した5時に店に行くと30代と思われる男性ふたりが待っていた。
そこでその紙の束を見た。それは日本版『エスクァイア』に一年間連載した森永博志&矢部直『ピカレスク・アイ』だった。いきなり時間を逆行した。
ときはたぶん1996年か? 記憶を探る。
そのころ太宰治の『二十世紀旗手』に没頭していた。カッコいい! 小笠原にも通いはじめていた。ジャム・バンドやドラムンベースにも傾倒していた。ロンドンにもシアトルにも行っていた。極私的小宇宙に魅力的な流星が降っていた。
それを当時、アシッド・ジャズ系の世界的DJグループUFOの矢部君を相手におのおの心にとめた事象を文章に書いて紙上で共演する。矢部君は当時世界をまわっていた。人気の絶頂にあった。相手に不足なし。
その矢部君と出会ったのは1980年代の終わりか? はっきりとは記憶にない。そのころ彼は桑原茂一が主宰するクラブ・キングのスタッフだった。茂一たちは革命舞踏会と題したDJイベントを定期的に開催していた。
ぼくもそのカルチャーに興味があったが自らレコードをまわそうとは思わなかった。その代わり60年代の文化的産物であったスライド・ショーには心誘われた。
それもサイケデリックの写真を収集した。
中でもアフリカを原産地とする珍奇植物の花の幻覚的な美しさに魅せられ自分でもその植物を収集し、咲いた花を撮影。また図鑑から複写もした。
そんなスライドを多数作成し知り合いのパーティーにスライドのマシンを2台持ち込み自ら操作し音楽にシンクロさせて投影していた噂が茂一に届いたか、そのスライド・セットを貸してくれと茂一本人から申し入れがあり了解すると矢部君が何回かそのスライド・セットを自宅に借りにきていたらしい。と、本人から教えられた。
そこからのつながりだが親しくなったのは、その数年後〈バー青山〉だった。彼はそこでDJイベントを定期的に開催していた。親しく話す仲になり意気投合した。
その後イベントや創作で可能な限りぼくらはコラボした。その延長で『エスクァイア』の連載を企画したのだろう・・・
しかしなんでこんなにダラダラと書いているんだろう?
たぶんそのダラダラした生活を愛したときもあり、そんな中からも何か生みだしていたんだろう。
それは20年も前のことなのになぜか昨日の対話のように錯覚してしまう。
いったい お互いどんなことを書いていたのかほとんど記憶にない。
でもぼくらは何かにものすごく真剣に好奇心に向きあっていた。
最近はもう矢部君と会うことはなくなったが、あの時代の夜をいっしょに生きた同志感はいまでもある。
連載はいくつか手元に残っていた。