森永博志のオフィシャルサイト

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仙台の荒吐ロックフェスに向かおうとしてた前日、主催者の菅さんよりメールが入った。


【明日、ARABAKI  ROCK FEST.お待ちしています。


先日北品川のお店にてご紹介をした劇団ロ字ック山田さんより、猪苗代湖畔天神浜にて、7月30日~8月7日開催のオハラ☆ブレイクの脚本が届きました。


演劇の音楽は真心ブラザーズとフラワーカンパニーズと一日ずつ担当して頂く予定です。


ご確認下さいますようお願い致します。】


僕の自伝『あの路地をうろついているとき夢見たことは、ほぼ叶えている』の演劇化の話を菅さんから受けたのは、昨年の冬であった。

菅さんは猪苗代の出身。いまは東北最大のイベント会社ジー・アイ・ビーのプロデュサーであり、荒吐フェスの主催者でもある。

そして、昨年より、出身地猪苗代湖畔で新たなフェス【オハラ☆ブレイク】をスタートさせた。

昨年、菅さんが仙台から上京の折、劇団ロ字ックの代表/脚本・演出の山田佳奈さんも紹介していただいた。

そのときから脚本作りがはじまり、第一稿完成の知らせをゴールデンウイーク直前に受けた。


4月29日、30日、2日にわたるロックフェス荒吐に行くのははじめてであった。

仙台駅からバスで一時間ほどの山中、広大なエコ・キャンプ場が会場だった。

面識あるミュージシャンも多い。

サカナクションの山口一郎、ブラフマンのトシロウ、水曜日のカンパネラのコムアイ、真心ブラザーズのYO-KING、スカパラの谷中敦、25年にわたる親友元ルースターズのドラマー池畑潤二、、、彼等と会場で会うと、「あー、森永さんだ!」と歓迎され、自転車で会場を走りまわっていた菅さんとも会えた。


初日は雨や強風にさらされもしたが、自然境の中での素晴らしいフェスであった。

管理もゆるく、一日2万6千人を数えた観客たちも自主的な秩序のもとに楽しみ、アーティストたちも飲食フリー、喫煙可の休憩所でリラックスし語りあっていた。

ロック・コンサートは会場での警備員の管理体制が厳しく、そんな光景を見ていると、もの悲しくなる。

ひどいときは終演後、退場も主催者のアナウンスによる指示に従わされ、まるで収容所だ。

そこに本来あるべき、最低のルールを自覚し自主的に守り、あとは自由を満喫するという意義のカケラもない。

しかし、荒吐は驚くほど警備員もいず、警告めいた看板もなく、各会場へ向かう観客たちも先を争わず、アーティストも観客も自由を満喫していた。

自主性と民主性が理想的なまでに融合していた。

休憩所で会ったフジ・テレビの平野雄大も、毎年恒例の12時間の特番を制作するために150人程の撮影チームを引き連れてきていて、彼も数あるフェスの中で、荒吐が一番解放的と言う。

みんなが、そこにいる時間を楽しんでいる。

この空気を生み出しているのが、主催者の菅さんの人徳であるような気がした。

来年も絶対に行こうときめた。


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ブルーハーブ@荒吐。
一言一言が胸に突き刺さり、力を得た。


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KEN YOKOYAMA@荒吐。
ロックのメッセージは彼に生きる。


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真心ブラザーズのYO-KING@荒吐。
素晴らしい高揚をもたらした。

それにしても、菅さんとの出会いから猪苗代における新たな縁が生まれ、改めてトリップ・リアリゼーションの意味を考えさせられた。


事の発端は、昨年の夏の終わりであった!



311の年から開催されている【風とロック】芋煮会を見に行こうと新幹線で福島に向かった。

目当ては、ブラフマン。同行者のツテで、リーダーのトシロウ氏に会えるかもしれないと、ミーハー気分を胸いっぱいに、「行くぞ、東北!」、スーパー・フューチャリズム・トレインに乗り込む。

新幹線という呼称を風化させた、それは夢のサンダーバード2015型。

こっくり居眠りした瞬時に新白河に到着。実はゴルフ場だが広大な森の中に建つ英国宮殿風ホテルにチェック・インし、冷たい小雨を裸にうけて露天湯に浸かり、浮世離れした静謐な空気に六根清浄する。

フェスは明日だ。天気の心配はあったが、朝から夏の陽気、雨はあがっていた。

会場は市営の野球場。事務局を訪ね、主催者であるグローバル・イベント・プロデュース執行役員の菅さんを同行者から紹介してもらい、自伝を手渡し、「ぼくのWebのトリップ・リアリゼーション福島篇を読んでください」と伝える。


その20日ほど前のこと、朝方、大井町の喫茶店で普段は見ることもない新聞をなぜか手にとり、引き裂くように開いたら、いきなり、【オハラ☆ブレイク】なるフェスの広告が二面フルカラーで目の前にでかでかひろがり、ショックにうたれた。

全面をうめる写真は見慣れていた猪苗代湖と磐梯山を鮮紅にそめるサンセット・タイム・ワールド!

影となった天神浜に、まるで、1970年代のバリ島クタ・ビーチにサンセットを見物にきたトラベラーのごとく、和む人々、、、この空気感は肌にしみている。


ヘッドコピーに曰く。

【フクシマのまんなかで、あたらしいフェス、生まれました。」


ボディーコピーに曰く。


「小説、美術、写真、映画、演劇。

音楽だけじゃない

いろんなジャンルのアーティストが

集まって共鳴して始まった

あたらしいフェスのかたち。


猪苗代の湖水に足をひたして

磐梯山の威厳に圧倒されて地元のご飯でおなかを満たした

気ままでピースでスローな休日。


子どもも大人も、もっと大人の人たちも

世代を超えてワクワクできる

ここはそんな、特別な空間。

来年の夏、オハラ☆ブレイクで会いましょう】


さらに付記が続く。


【オハラ☆ブレイクは、それぞれのジャンルで活躍するアーティストが、自由に表現の実験を行うカルチャーミックスフェスティバル。ミュージシャンは音楽と映像が融合したスペシャルなライブを披露し、画家はカフェでDJを務め、小説家はこの日のために新作を書き下ろす。フクシマのまんなかで、民謡「会津磐梯山』の小原庄助にならい、スローで豊かな時間を過ごすために始まりました】


こんなフェスが猪苗代湖天神浜で開催されたことを知らなかった。


参加アーティストは、あがた森魚、浅井健一、アシッドマン、伊坂幸太郎、キャラバン、サニー・ディ・サービス、ゴンチチ、田島貴男、チバユウスケ、トータス松本、ブラフマン、奈良美智、ハナレグミ、真鍋大度、宮本浩次、山口一郎、ラブ・サイコデリコ、仲井戸麗市などなど。


サカナクションの山口君は甥の邦彦ともコラボしているライゾマティックスと組み、会場に吹く風をインスタレーションで表現と、新聞には説明されていたが、まったく想像つかない。

朝日新聞が主催に関わっている関係で、二面フルカラーの広告を出稿できたのだろう。


どこにも、福島復興、支援の言葉もなく、福島が抱え込んだ311後の現実にも触れてないので、まるで、311以前に開催されたフェスと思い違うような広告だ。

しかし、それは、主催者側の意図もあるのだろう。


それにしても、このWebでも書いた天神浜が、このような大きなフェスの会場となったことに驚きを禁じ得ない。

フェスがなければ、ただ風光明媚なローカルな人知れず存在する自然境のひとつにすぎない。

天神浜では、何人か、重装備のアマチュアカメラマンは見たが、それ以外にレジャーに興じる人を見たこともない。雪降る冬には神社の境内から浜への抜け道は雪に埋れてしまう。


主催者である菅さんには、フェスいきさつや一回目の反響などをヒアリングしたかったが、芋煮会実務に追われているようで、その時間はなかった。


ブラフマン出演の直前にバックステージを訪ねると、リーダーのトシロウ氏がいて、同行者がトシロウ氏に「こちらは森永博志さん」と言うと、
「じゅうじゅう承知しております」とおっしゃられた。

意外な発言であった。

ぼくは、そのバンド名からしてカルト的な存在は前から知っていた。

甥の邦彦とアンリアレイジの「パッチワークの神」ことマキ君の二名が異常なブラフマン・ファンで、彼らから、そのライブの感動は聞いていたし、マキ君から音ももらっていた。

しかし、ステージは見たことがなかった。

「警備員なんかになりたかねえ! テキ屋なるかにもなりたかねえ!」と叫ぶところからはじまったステージはドアーズであった。ニルバーナであった。イギー・ポップであった。

すべては脱俗の次元へと飛翔を遂げるブラフマンであった。

リーダーのトシロウ氏は水戸出身と聞く。


会場を車で去るとき、ステージを終え楽屋へと戻るトシロウ氏とすれ違い、またステージを見に行くと伝えた。


旅の目的は完璧に遂げた。


それから、数ヶ月経ち、菅さんからのメールが友人経由で届いた。

【先日は福島県白河での風とロックでご紹介頂いた、森永さんの本、大変遅くなってしまいましたが、読ませて頂きました。

本の中に出てくる森永さんはじめ、本に登場する方々の音楽文化をつくっていく過程がとても音楽愛にあふれていて、とても共感いたしました。


来年、是非、オハラ☆ブレイクにご来場頂きたいですが、あわせて、何か企画をご一緒できるのではないかと思いました。


是非、一度、森永さん交えお話しをさせて下さい!    菅  真良】


こうして発端が、おとずれたのだった。


 ★


2016年5月中旬、 久しぶりに、猪苗代を訪ね、小松夫妻に会った。

小松農園の砂鉄荘で昼にビールをご馳走になり、畑で300本程の山芋の苗の植え付けを手伝った。

秋の収穫時には、分け前にあずかれる。

夜、猪苗代湖のサンセットを見晴らせる小松宅で、奥さんの主に山菜料理を肴に夫妻と酒を飲み交わした。

最近、書記長は、311その後をテーマに講演したという。

そのとき投影したというスライド写真を見せていただいた。

あのとき、被災地の無残な姿を映像や写真で目撃し、人生初のショッキングな体験をした。

それも時が経てば風化してゆく。

しかし、小松宅で目にした3枚の写真プリントは、生々しく311の恐怖を蘇らせた。

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311前の小松邸は定年退職をし、あとは悠々自適の暮らしを美しく自然の幸にも恵まれた環境で楽しむ余生の象徴に思える。

小松夫妻も、そう感じていた。

それが、自然の猛威により、木っ端微塵となった。

アントニオーニの『砂丘』に見たシーンそのものだ。

この状態から、小松夫妻は、各地を転々とし、猪苗代湖に流れついた。

そして、小さな畑を手に入れ耕作の日々を送る新しい生活に満ち足り、心に余裕も生まれ、畑の中心に庵を建てた。

「南相馬の小松邸も立派でしたけど、いまとなっては、砂鉄荘の方がロマンチックですね」

と思うところを口にすると、

「そうかも知れませんね」

と書記長。

「実は、僕の自伝のタイトルは、去年いっしょに全員避難地区の原町に行ったとき、無人の路地を歩いてたら、空から降ってきたんです!」

と告白すると、

「そうだったんですか!」

とおふたりは声をあげ、

「じゃ、是非とも、南相馬の人たちもオハラ☆ブレイクにきてもらいましょう」

と書記長は声を張り上げた。


自伝は、猪苗代湖を見晴らす部屋で書き上げた。

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新たな展開を迎えることになったトリップ・リアリゼーション福島篇は、あの日、猪苗代を初めて訪れた日に星の粉となって降りかかっていたのだ。


【つづく】

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