履き古したブーツを
持ってるかい?
それは足元の鎧
鉄路を峡谷を
浜辺を岬を
星降る丘を
虹架かる森を
ひとりで歩んだ
あの日
履き古したブーツに
俺は囁いた
まだまだ
行けるさーー森永博志
5
小松夫妻は2014年11月24日には、米国西海岸サンディエゴに旅だった。
一ヶ月ほどの滞在予定だったが、書記長は12月6日に、「帰ってきました』と連絡がはいった。
早!
「どしたんですか?』電話で聞くと、
「退屈で」
夫人は予定通り滞在する。
「帰ってきたら、例年より10日早く、雪が降ってました」
砲丸製造計画を再開するために猪苗代に向かった。
雪降る猪苗代湖はまるで、書記長が言ってたようにベーリング海のような厳しい冬景色と化していた。
あの神秘的なブルーの輝きは微塵もなく、横に走る雪混じりの深い霧に包まれていた。
二週間ほど前に秋吉久美子さんと対談したときに、彼女が若いころを福島で過ごしたとプロフィールを読み知っていたので、そのことを聞くと、
「あたしは6歳から10年ほど、いわき市にいたんです。でも、父は猪苗代湖の水質検査の仕事についていたので、よく猪苗代湖には遊びに行きました。あの湖は神秘的なまでに美しい」
と、彼女は言った。
猪苗代に通うようになって、それが「引き寄せ」の妙なのか、猪苗代に生まれた人によく会うようになった。
以前から親しくしている中西多香さんは、猪苗代に生まれ、なんと祖父が猪苗代町の二代前の町長だったと知った。
「夏休みは猪苗代湖の上戸浜によく湖水浴に行ってました」
と言う。
芝浦の創業90年の居酒屋〈大平屋〉でよく顔を合わせる女性客の西条さんも猪苗代出身と知った。彼女は若い頃はフレディー・マーキュリーのファンだったそうだ。
「あたしは若い頃、父から、ダメなものはダメだ。今日できることは明日に延すなと戒められて、育ちました」
どうやら、それが、会津魂のようだ。
「会津は、女が強い?」と、聞くと、
「家を継ぐのは長男とは限りません。長女が継ぐこともあります」
土地には風流な気風があるとも言った。菊人形は二本松で発祥している。あれは、発想も技も、とんでもないものだと思う。
「サンディエゴ、どうでした?」
雪降る猪苗代湖を望む小松宅で会話している。
「子供夫婦の家にプールがあるので、毎日天気はいいし、毎日泳いでました。でも、他にやることもなく、わたしは、ダメですね。家内は毎日、楽しんでます」
サンディエゴでは日本から進出した〈牛角〉が大人気だったと言う。
書記長の話しから想像するサンディエゴは、ぼくにとっても退屈そうだ。
過去、サンディエゴに行ったのは一度だけ。何十年も前、ロスに仕事で長く滞在している時、サンディエゴのスタジアムまで人気の絶頂にあったマービン・ゲイのライブを見に行ったことがあった。スタジアムを埋める観客の全員がドレス・アップした黒人だった。
ブラック!
話はブラック・クリスタル・ビーチに飛ぶ。
書記長はサンディエゴから戻ると、猪苗代湖の砂鉄の浜に車を飛ばした。
「それで、ビックリしました!」
書記長は興奮気味に語る。
数ヶ月前に砂鉄を確認したビーチに行くと、
「あの時にはなかった黒山があったんです。それに磁石をあてたら、ついた! 全部が砂鉄だったんです!!」
それを書記長は持参したバケツいっぱい採取した。
家に持ち帰り、重さを測ったら27キロあった。
砲丸をひとつの重量は4キロ。ひとつ製造するのに必要な砂鉄量は10キロ。
「砂鉄は、もう、めどがたったも同然です」
と、祝杯をあげた。
砂鉄は玄関に、バケツいっぱいあった。手に持つと、異様に重い。
「しかし、なぜ、砂鉄は錆びないんでしょうか?」書記長に聞いてみた。
ステンレスでさえ、長く雨風にさらされれば錆びるというのに、なぜ?
「いろいろ、調べてみたんですが」
こういう話しだ。
ーー砂鉄が錆びない理由は、黒錆が表面を保護しているとしか考えられない。その黒錆とは、たとえば鍛冶屋が鋼を真っ赤に焼きこむ理由のひとつは黒錆の生成にある。それで、黒包丁、黒仕上げ包丁、黒打ち包丁といった錆び難い包丁を古人は製造していた。
ちなみに中華鍋を空焚きするのも、それにより黒錆を生成し、鍋の錆を防いだ。
しかし、それは人の手によって黒錆を生成する文化で、自然界には砂鉄のようになぜ黒錆が形成されたのか?
といって、書記長はさらに言及した。
「古代人が初めて鉄を認識したのは? ふたつの有力な学説かあります。ひとつは、モリナガさんもいってた隕石の中から発見した」
「もう、ひとつは?」
「たまたま、鉄鉱石が含まれていた土地で暮らしていた古代人が、焚き火を繰り返しているうちに熱で形成された鉄塊を見つけた」
「それは砂鉄じゃない」
「塊です。わたしは隕石説をとります」
ということだが、なぜ、砂鉄がこの世にあるのか、不思議でならない。
砂鉄は鉄の砂、あるいは砂状の鉄である。
普通、砂は岩石、珊瑚、貝殻が何億年も波に現れ、砕かれ、運ばれ、ビーチになる。
だから、ぼくも島の海岸で確認しているが、それらが砂になるまでの段階があり、ところによっては小石が浜を埋めていたり、砂になるまでの物体の長大な時間の推移を見ることになる。
ところが、砂鉄の浜は、鉄塊が砂になるという推移がない。
いきなり、砂鉄。
元から砂鉄のようなのだ。
では、その多量の砂鉄は、いったい、どこからきたのか? 海の中からか、山からか?
砂鉄は、サイズの大小がない。
均一のサイズなのだ。
それも、海だけでなく、湖のビーチにもある。
「わたしの姉は、南相馬に生まれて、嫁いだ先が、砂鉄の採取業者だったんです。戦前も、戦後もビーチで砂鉄を採取して、あれは、多分、川崎の製鉄所だと思うんですが、貨車で送ってました。朝鮮動乱のころは鉄が高騰し、それが特需景気を呼び、戦後日本が経済復興した」
「福島から鉄が行ってたんですか? 」
「そう、記憶しています。姉の家は311で被災し、津波にはやられなかったんですが、帰宅困難地区になり、いまは別のところに仮住まいしてますが、姉に聞けば、いろいろ解るはずです。一度、南相馬に、また、調査に行きましょう」
そうか、書記長のお姉さんは砂鉄のプロの家にいたのか。
翌日、書記長とぼくは会津へと車を走らせていた。
田園地帯の雪景色は幻想的なまでに美しい。
砂漠が、そうであるように、色をなくした世界は、景色に深遠な趣を与え、世界はしんしんとした静寂に呑み込まれている。
永遠の存在である黒い砂鉄と刹那の存在である白い雪。
この星に存在するマテリアルについて、原子物質まで含み、我々はどれだけ知っているのか。
雪景色の中、車は会津へと、ひた走る。
目指すは旧会津若松城、現鶴ヶ城だ。
城の中に、戊辰戦争時の砲弾が残されているのではないか? と思い向かった。
雪に覆われた城は想像を絶する美しさだった。
正直、これほど美しい建造物は見たことがなかった。
地球遺産と呼ばれる建造物は世界各地で見てきた。
それは壮麗であったり、威容であったり、人智を超えた文明だったが、どれも歴史の垢にまみれていた。
あるいは観光の風塵をかぶっていた。
城を美しいなどと思ったことは一度もない。
雪の会津城は神々しいほどの美を纏っていた。
ここが、戊辰戦争時に激烈なる戦闘地になったのか。
そんな血まみれの歴史をどこにも感じさせず、優美にさえ感じる表情で立っている。
白い女王のようだ。
城内には会津藩の歴史を展示するフロアーがつづくが、あまり、興味をひかない。
しかし、戊辰戦争のコーナーに、やはり、砲弾があった。
それは、やはり、我々が製造しようとしている砲丸と同一であった。
記録も残るーー籠城者数、4956名。残留武器数。大砲50門。小銃2845挺。胴乱18箱。小銃弾230000発。槍1320筋。長刀81振。
なぜ、こんな数字を表示しているのか?
城内を巡るうちに、会津城と城下町の絵図があり、驚愕した。
巨大な要塞都市だ!
中世期から幕末にかけて、そこに強大な王権が存在していたことを示す。
おそらく、西を追われた南朝王権が、この地で復権を遂げたのだろう。
その象徴が会津若松城なのではないか。
防衛のための外壕に囲まれた広大な土地に城が立ち武家屋敷が広がる。
城壁で町を囲っていた北京のようだ。
これは、陥落まで一ヶ月の戦闘となった難攻不落の城とよくわかった。
しかも会津藩は相当な規模の製鉄・武器製造所を持ち、武器数も多大だったのだろう。
しかし、この時代、大砲戦が勝敗を分けたとしたら、会津城の残留武器数に小銃弾の数は相当数あるものの、大砲はあるのに肝心の大砲弾はひとつもない!
たぶん、一ヶ月で撃ち尽くしたのだろう。
しかも、会津藩の大砲弾は砲丸型の打撃系だ。に、対し官軍側は列強から流れてきたロケット型の炸裂による無差別殺傷系だ。
この大砲の差で、会津は敗れたのだろう。
たった、ひとつ展示されていた大砲弾、すなわち砲丸から無念さが伝わってくる。
いったい、会津藩は、どれくらいの大砲弾を製造し、撃ったのか。
大砲弾は野に散らばり、戊辰戦争後、どうなったか?
戦争の目的は聖戦をはじめ多々あるが、ひとつに敵国の有する資源、財産の略奪にある。
アフリカでも南北アメリカでも先住民の資源、財物は徹底的に略奪された歴史がある。インドもベトナムも中国も同じ運命にさらされた。
内戦の戊辰戦争とて同じ。
やはり、官軍側には資源の略奪が目的にあったはずだ。
「おーい、ただちに、砲弾を集めろ!」
という官軍大将の号令が会津の野に響く。そこには大砲弾がゴロゴロころがっていた。
「ひとつにつき、小判ひとつで、買い上げるぞ!」
長期に及んだ過酷な戦線でヘトヘトになった官軍兵士たちは野を駆け回る。
誰かが、「なんで、砲弾、拾うんだ?」 と、呻くように言うと、
誰かの「会津の砲弾は最上級の砂鉄から作ってるから、新政府が必要らしい」声が答える。「どうやら、錆びないらしい」
官軍側は拾い集め、野を越え山を越え帝都に持ち帰り、それで、文明開化を汽笛が告げる蒸気機関車と線路でも製造したかな?
猪苗代への帰り、強清水の〈もろはくや〉に寄ると、いつも上がる大座敷の様子がおかしい。使用できない。
よく見ると、以前見たコラージュ作品らが、壁から外され、座敷のテーブルに立てかけられてある。
店の人に、事情を聞くと、女将さんが座敷で個展を開催するという。その準備中らしい。
女将さんが厨房から姿を見せ、
「あーら、小松さん!」
と、以前とはせんぜん違う親密さで書記長に声をかける。
「新聞、読みました。わたし、感動しました」
新聞! それは一ヶ月ほど前、311の津波と原発事故ですべてを失い、浪江から避難し、各地を転々としたのち猪苗代に流れ着き、小さな畑を耕作し、70歳近くして、新しい人生をはじめた小松夫妻のドラマが福島新聞に載った。
「新聞を読んで、みんな、感動しました」
書記長は恐縮しているが、女将に、いま、砲丸を作るために、いろいろ調査し、すでに砂鉄も採取したことを告げた。そして、
「砲丸が完成したら、砲丸投げ大会を開催するつもりです。そのときは、是非、女将さんに模範の投げ方をご指導していただけないでしょうか?」
と言うと、女将は、
「わたし、やります!」
と、あたかも宣言するかのように言うのだった。
「力まかせに真っ直ぐ投げても、距離は飛びません。こう、顎にあてた砲丸を全身を使って押し出すようにひねるんです」
と、すぐさま女将は投げるポーズをとる。
「ひねりをきかせる?」と書記長が訊ねる。
「そうです。ひねりです。わたしの娘が高校のころ、砲丸やりたいというので、その裏の寺の境内で指導してたら、大変な人だかりになりました。娘は、いまひとつ、ひねりがきかず、だめでした」
書記長は、意を決したように、女将に
「砲丸をもってますでしょうか?」と聞いた。
「ありませんよ。学校にはあるでしょうけど」
「では、大会の時は、是非、よろしく」
と言って、席を立った。
店を出る時に、厨房の方から、女将の弾んだ声が届く。
「小松さん、砲丸作って、大会やるんだって。わたし、そこで、投げるよ」
外に出ると、壁に額入りの昔の新聞が掲示されてあったので何かなと見ると、
「書記長、女将さん、ただもんじゃないです!」
と、駐車場へと歩いていく書記長を呼び止めた。
「女将さん、商品開発もしてたんです!」
新聞記事には、会津の名物、あげ饅頭は〈もろはくや〉の女将が考案し、それが一日二千個も売れたと紹介されていた。
怪人だ!
会津の女将が砲丸計画のメンバーに加わった。
女将さんは名誉顧問だ。
人の中にも、決して錆びることのない心がある。
猪苗代に帰る車のなかで、書記長はぼやく。
サンディエゴから帰国したら、すぐに畑に行って、白菜を収穫しといて欲しいと、夫人から言われていた。
ところが、雪が早くも積もって、畑仕事はできなくなった。
「なのに、玄関に白菜はなくバケツいっぱいの砂鉄があったら、家内は、なんて思うかな? 畑仕事さぼって、砂鉄集めてたんでしょって、怒られるんじゃないかな?」
「怖い?」
「・・・・」
「でも、冬のあいだ雪かぶった方が、白菜、うまくなるかもしれませんよ、書記長!」
とフォローすると、急に、晴れ間がのぞくかの口調で、
「そうだな!」
って、書記長! そんなこと、来春にならなければ、わかんないですよ!
車は美しい雪景色の中、鶴の滑空のように猪苗代に走る。
そして、ぼくは天啓を受けたかのように、思い得る。
セツモードセミナーの創設者にしてモード・イラストレーションの大家にして、「男らしさ」なんていう野暮な価値観を徹底的に卑下していた長沢セツは、会津生まれの生粋の会津人であったことを。
長沢セツは、反逆者だった。