森永博志のオフィシャルサイト

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天気はくずれてきた。小松夫妻と三人で二本松から相馬に向かい山越えしていた。何処を走っているのか、まったく、見当もつかない。四方八方の地理感は皆無に近い。

ただ、福島の紅葉真っ盛りの山中を海に向かって走っていることだけが頭でわかっている。ぼくは福島の地勢を把握していなかった。汚染土を除染する作業現場がつづく。


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書記長から、とんでもない情報がとどいたのが一週間ほど前、書記長はいう。

「南相馬に、古代の製鉄炉があったそうです。その数、125、古代日本で最大規模の製鉄所だったそうです」

「砂鉄の浜があるって言ってましたよね?」

「ありました! でも、まさか、そこに製鉄所があったとは?   森永さん、そこに、調査に行きましょう!」

「行きましょう!」

で、書生のS君が運転するプリウスで常磐道をかっ飛ばし、猪苗代湖に向かった。

猪苗代湖は少し魔術的な姿を見せはじめていた。これほど変化に富んだ湖は世界でも稀だろう。いまだに湖とは思えない。海としか見えない。しかも一日たりともおなじ姿は見せない。変幻自在。ここに芸術的インスピレーションの源を見る。想像力の霊泉を見る。


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そんな世界を堪能したあと湖畔の小松宅の酒宴で話すと、さらに書記長の調べは進んでいた。

まず、古代製鉄所の溶鉱炉の跡が南相馬に残っている。それに関する何らかの遺物が南相馬博物館に展示されているはずだと書記長は言う。

「砲丸を制作するにあたって、わたしとしては、できるだけ古代の製鉄法でやりたいと思ってます」

と、書記長はまるで、かつて書記長が勤務していた明治ゴム化成(旧明治護謨製造所)において、およそ1000人の組合員のリーダーだったときの演説のように力強く言うのであった。

明治ゴム化成は、その企業名のとおり、創業1900年の日本で初のゴム製品メーカーだった。ゴムはベルトに加工され、あらゆる機械の動力的最重要部品として必需品だ。やがてキリン・ビールのためにプラスチック・ケースを開発し、会社は大繁栄を遂げた。大崎の目黒川沿いに工場があった。工場がまだ社会の中心に堂々とあった時代の話だ。

書記長が、その工場を描いた絵を見せてくれた。

凄すぎる! ピンク・フロイドの『アニマルズ』だ!


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「この建物の屋上で、付き合いはじめたわたしたちは写真を撮りましてね。写真は311の津波ですべて流されたんですが、なぜか、その写真と流された家の写真だけ携帯にいれてたんです」

と書記長は不器用な操作で、その貴重な思い出の写真をよびだした。時代は昭和30年代、写真に見る小松夫妻は若い!


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しばし、その写真に見入ってしまった。

 

「若い」という言葉が、昭和の青春の賛辞であったことを思い出した。それは、年令のことだけではなく、心の有り様を語るものだった。なんの歌だったか、「若い若い若いふたりのことだもの」というフレーズが胸に響き渡った。

半世紀以上も前のそのときのおふたりの前途は洋々としている。その時代がそうであったように、希望に満ちた「未来」がふたりの行く先にひろがっている。

そして、もう一枚の写真は請戸という港町にあった洋風の小松宅、311で根こそぎ津波にさらわれ、海の藻屑と化した。アメリカン・スタイルのオシャレな邸宅だ。311前には、地元の人たちがよく小松宅に集っていたそうだ。


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その請戸に、砂鉄と古代製鉄所の調査を兼ね、震災以来、ぼくらは初めて出かけて行くことになったのだった。


なぜ、砲丸を製造しようなどと、誰がみてもバカバカしい野望を書記長とぼくはいだいたのか、やはり、それはあの日、強清水の蕎麦屋の女将との対話からうけた天啓だった。何の根拠もない。書記長が突如、「砲丸をつくろう!」と叫んだとき、ぼくの胸は撃たれていた。女将は、その後、砲丸、アート以外にも只者ではないつわものと知ったのだが、おそるべし会津!


数日後には、会津若松にある戊辰戦争の資料館で、戦闘に使われた白砲丸という砲弾を発見していた。それは砲丸そのものだった。大砲から発射された白砲丸は炸裂することなく、その打撃力のみで敵を攻撃する。

それに対し、その資料館には官軍が戊辰戦争に使用した砲弾も展示されていて、それには炸裂した無数の鉄片でヒトを無差別に殺戮すると解説されていた。

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それは英国から調達したすさまじい破壊力を持つ近代兵器だったのだろう。

少年たちまでが犠牲になった戊辰戦争は、いったい、なんであったのか?

官軍や賊軍などという大義などなく、近代的軍隊を組織するためのシュミレーションだったのではないか。実践的演習だ。官軍はそのまま軍隊になったのではないか。

その後、侵略的戦争へとおちていく日本帝国の運命を思うと、そこには血なまぐさい陰謀を感じてしまう。

果たして、砲丸と白砲丸は、同じものだったのか。それは遊戯の道具であると同時に武器だったのか?


余談だが、その資料館には大変珍しいものがあった。それは、クロード岡本の楽焼。解説に「クロードはピカソの実子なり、友人の岡本豊太郎の養子として出す。クロードは天才少年画家として活躍。会津に来た時、東山温泉天平荘にて昭和31年9月6日制作されたものである」とある。

この楽焼がまたいい。

あー、ここで、ピカソかよ。この話もおもしろそうだが、いまは砲丸だ。


「しかし、書記長、その古代の製鉄所では、何を製造してたんですかね? 」ぼくと書記長は杯を交わしながら論議している。「まさか、砲丸まで製造してた?」

「博物館に行けば、開設にあたった代表が迎えて、解説してくれるそうです」

さすが、書記長! すでに現地に手配していたのだった!


その夜は、小松農園産のピーナッツを具にしただけの炊き込みご飯をごちそうになった。このピーナッツご飯は小松夫人の創作料理だ。すでに何度か食べ、栗ご飯を凌駕する、その雅な美味の虜になっていた。


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おそらく、いままで食べたどんな炊き込みご飯より、それは美味だ。いろいろほかの畑のピーナッツを使ってみたが、小松農園で収穫するピーナッツでなければ、夫人が理想とする雅な美味にはならない。どうやら、土に秘密があるらしい。


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あとは島田部落の渡部さんちのもち米だ。

料理法は?「秘密」(小松夫人)


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左は小松書記長、右は豪農の渡部さん

昼には、相馬に着いた。昼食後、南相馬博物館に向かった。古代製鉄所で使われていた溶鉱炉の現物が展示されていた。それは、想像を越えた規模で、とても復元できそうにない。書記長は用意したスケッチブックに描きうつしている。


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やがて、小松夫人が311以前に勤務していた相馬の不動産屋の女性社長と博物館の宍戸さんがやって来て、女性社長から紹介された宍戸さんが館内を案内してくれた。

レプリカやジオラマの制作に関して、日本でもトップの技能を誇るプロダクションに依頼しているという解説を聞いていると、宍戸さんから、乃村工芸の名前がでた。ぼくは、びっくりし、まさかと思い、聞いていた。

「片山さん、ご存知ですか?」

「わたしの先輩です。わたしも乃村工芸にいました」

「そうですか! ぼくは地元の居酒屋で片山さんとはよき飲み友達です。先日も、片山さんに、大学の先輩だという田名網敬一さんとぼくが書いた本を貸したばかりです」

その本は、まさに、今回のトリップのような『幻覚より奇なり』だ。

「わたしも武蔵美です。田名網さんのことは知ってます」

という、福島奇縁談に衝撃を受けていた。

片山さんは日本で最初にスーパー・コンビューターを会社に導入し「紅の豚みたいに曲芸飛行のシュミレーションで遊んでたんだ」と言うヒトで、むかしも70歳近いいまも現役バリバリのデザイナーとして大規模な展覧会の空間演出をしている。ちなみに乃村工芸は江戸創業の日本で最初の株式会社だ。

宍戸さんは、そこに勤務していた。片山さんの後輩だという。只者じゃないと最初から印象をうけていた。

片山さんと会う居酒屋とは、このWebの「芝浦町内血風録」に登場した大平屋だ。以前、乃村工芸本社が芝浦にあったときは乃村工芸の社員が毎晩たむろしていた。大平屋の常連客のひとり女性の西條さんは猪苗代の出身だった。福島奇縁談はエスカレートする。


当初の目的は、南相馬市の博物館に展示されている古代製鉄所の遺跡を見学することだった。


古代のコーナーに、その目当ての、なんとレプリカントではなく現物があった。古代遺跡の、しかも溶鉱炉の現物を飾るなんて、ここだけだ。巨大なので、建物が完成してしまったら、館内に搬入できない。だから、建設前に運び込み、設置したそうだ。マニアックすぎる。


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「どして、コレが、ここに?」宍戸さんに聞いていた。

「コレは東北電力の裏山から切り取って持ってきたもんなんです」

「東電?」

「そうです。原町火力発電所を建設しようとしたら、そこの地中から、古代製鉄所が出てきた」

そんなバカなという奇談だ。でも事実らしい。

「いつの時代のものですか?」

「奈良・平安時代です」

製鉄所は南相馬市原町区・鹿島区に広がる金沢製鉄遺跡群。その数、製鉄炉123基、木炭窯149基、そのほか住居群だった。古代日本最大規模の製鉄所だったと言われている。

「何を作ってたんですか?」

「武器だったという説が有力です」

「武器は出土してますか?」

「それはないです。たぶん、それは戦争のたびに大事なもんですから、拾って集めて保管して、次の戦争に備える。あるいは、場合によっては鍋、釜にしてたんじゃないですか」

「どんな武器ですか?」

「やはり、まずは刀でしょうね。刀は武将しか持てない時代ですから。それ以外は雑兵が突っ込む槍でしょうね」


日本最大といわれる古代製鉄所がもし大量の武器を製造していたとしたら、それは何を意味するか。武器が歴史を作り、歴史をひっくりかえす。奈良、京都のあたりには製鉄所はなかった。


「しかし、ここ南相馬には、どんなヒトたちが暮らしていたんでしょうか?」

「縄文系の先住民がいて、そこに千葉の方から製鉄の文明を持ったヒトたちが移住してきたと言われています」

博物館にレプリカで再現された縄文人のコミュニティーを見ると、宍戸さんも言うように、太古の時代にカヌーで太平洋を広域にわたって移動していた航海術を持つ海洋系の民族をルーツとするのだろう。パプアあたりからか。石器、土器、骨器を使って狩猟、漁をして暮らすヒトたち。

そこに、青銅器、鉄器を用いて農耕する大陸系の民族が渡来してきて、先住民を駆逐していったという歴史観を見る。弥生時代のはじまりだが、この辺の時代区分はもはや風化している。すでに縄文時代に製鉄をしていたという説もでてきている。

「ここのあたりにも製鉄炉はあったみたいですけど、でも、製鉄というのは作ったら炉を壊さないと、鉄が出せない。ところが製鉄している最中に戦さがはじまったら、ほっぽりだして逃げるわけですから、こういう風に残るんです」

「製鉄所があったということは砂鉄が、この地に豊富にあったということですね?」

「そうですね。これが出土した場所の奥に鉄山があるんです。阿武隈山系というのは何万年もかかって形成された荒れ山なんです。台風のたびに山が崩れて土砂が流される。そこで砂鉄ができるんです。それを集めて、あと山からとってきた木炭を使って、火力で炭素を抜いて、鉄にしていって、それを武器や農機具にしていった」


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溶鉱炉の前にはガラス・ケースに砂鉄が展示されていて、それは真っ黒な輝きを放つ神秘的ともいえる美しい鉱物だった。砂粒は暗黒宇宙の星屑のようにキラキラと光っている。鉄なのに、何千年の時を経ても錆びてない。純度の高さを示している。といっても、何ら砂鉄についての知識はない。学ばなければ。


小松夫人に「猪苗代湖の砂鉄と比べて、どう?」と聞かれ、

「いやー、こっちの方が、もうぜんぜんクォリティーが高い!」とぼくは言う。

「木炭を燃やして、ふいごで風を吹き込み温度をあげて溶かすわけですね?」と書記長が宍戸さんに尋ねた。

「砂鉄を溶かすときに、当然、熱量としての木炭はいるんですが、一緒に炭をはさまないと溶けない」

「サンドイッチ状に?」と書記長。

「そうです。そうしないと溶けない」

  書記長はいちばん聞きたかったことを質問した。

「やはり、これほど大きくないと製鉄はできないもんでしょうか?」

「いや、テーブルのうえでもやろうと思えば、やれます。たとえば、工業高校ぐらいのレベルなら」

「工業高校!」ぼくは声をあげていた。「入学、すんのかよ!」

  小松夫人が爆笑した。

「もっと、くわしく製鉄のことを知りたかったら、南相馬の歴史ビデオがありますから、ご覧になりますか?」

「是非」


そして、ぼくらは併設されているシアターで、その歴史ビデオを見たのだった。それは、まさに、ザ・デイ・ビフォー、あの惨事の前の南相馬の「失われた世界」、シャングリラとさえ思わせる世界の記録だった。

ぼくは持参したカセット・テープ・レコーダーのスイッチをいれていた。


ーーまず、太古の世界へ冒険の旅にでかけましょう。じつは南相馬は化石の宝庫なんです。アンモナイトやときにはサイの化石まで見つかります。化石採集はワクワクドキドキの体験、太古の時代と対面することができます。

ほーら、これが恐竜の足跡。ふーん、まさに化石ワールド南相馬といってよいでしょう。

さて、冒険の旅は縄文時代へとすすみます。縄文人が食べた貝殻がたくさん見つかったウラジリ貝塚は国の史跡に指定されてます。稲作の証拠になる石包丁。四世紀につくられたサクライ古墳は東北地方特有の前方後方墳で、周辺には三十七基の古墳が確認されています。このほかに、マナ古墳群、ハヤマ横穴古墳など、それぞれ特徴のある古墳が市内に点在し、貴重な出土品が見つかっています。


(どうやら、南相馬は古代、日本最大の製鉄所を抱える古墳文化の地であったようだ。大和から遠くはなれて。しかし、日本史の教科書には何ら記録されていない。天皇でもいたのか?)


------さらに、盛んに鉄造りがおこなわれた古代の製鉄遺跡ともめぐりあえます。平安時代には南相馬の製鉄が万葉集にもうたわれるほど、京の都にまで知れわたってました。南相馬では、古代製鉄所の跡や木炭釜の跡が発見されています。

これは平安時代の製鉄所の跡です。赤く焼けている部分が製鉄炉のいちばん底の部分です。砂鉄のうえから木炭を、このなかで燃やします。


いずみかんがいせきは七世紀後半、陸奥の国の行方の行政をになった役所があった遺跡です。そこには相馬地方最古と考えられる仏像や石仏群も出土しています。平安時代の文化の香りただよう史跡です。


杉木立にかこまれた小高神社が見えます。もともとこの場所は鎌倉時代の末に相馬氏が築いた小高城の跡です。

江戸時代には近世史上最大といわれる天明の大飢饉がこの地方を襲い、餓死したヒトは数万人。そこで、二宮尊徳の報徳思想をもとに奥州中村藩は農村の立て直しにつとめました。尊徳の高弟となり、農民を救った高田高慶氏は尊徳と並んで、この地方の恩人です。

こうして、江戸時代の人々は、地域発展のために、東北の厳しい風土との戦いを乗り越えてきたのです。

明治、大正、昭和、人々の暮らしは大きく変化してきました。めざましい近代化と二度の世界大戦を経験しました。こうして時代の荒波を乗り越えてきたいまでも、伝統文化を尊ぶ気質は市民ひとりひとりに引き継がれ、個性的な町づくりに力をいれています。

中でも市民の誇りは、武家文化の伝統を地域ぐるみで今もしっかりと引き継ぐ相馬馬追いです。その勇壮さで、全国に知られるこの行事は平将門に由来する伝承であります。


(将門か! これは荒俣宏の『帝都物語』だな! なにか、壮大な謎が隠されている。伝奇ロマンだ! 奈良→京都→南相馬・・・・歴史に興奮している)


-----毎年、真夏の三日間、相馬馬追いで町中がわきます。馬追いはみっつの神社から神輿がくりだし、総大将出陣で祭りの第一日目がはじまります。


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勇壮な甲冑姿の総大将がひきいる相馬の宇田郷、鹿島の北郷、原町の中の郷、小高の小高郷、そして浪江、双葉、大熊の標葉郷の騎馬行列が進軍します。

総大将出陣の伝言後、早馬の知らせに走ります。甲冑競馬のはじまりです。


(記録映像を見ながら、異様な胸の高鳴りをおぼえ、血湧き肉躍る心境へとむかっていく。なにか、奥深いところで、記憶が踊り出しそうだ)


------騎馬隊が祭場地に到着し、ご本陣に神輿を安置したあとに、騎馬隊はそれまでかぶっていた兜を脱いで、白鉢巻をした甲冑姿の若武者の騎馬が十頭仕立てで一周千メートルの速さを競います。


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(「モンゴルだ!」と、ぼくは声をあげていた。騎馬民族だ)


------二日目の行事は神旗争奪戦。花火とともに打ち上げられた神旗を奪いあうもうひとつの合戦絵巻。勝者には総大将が褒美をあげます。帰りの騎馬行列のために町には火が灯され、花火があがります。

祭り、三日目。小高神社で野馬懸の準備がはじまります。御神水を浴びた馬が神馬となるのです。御小人と呼ばれる人たちが素手で馬をとらえます。野馬懸はもっとも重要な無形文化財です。


太平洋から昇る初日の出です。鹿島御子神社では由緒ある鎮火祭の行事がおこなわれます。この町に生まれ、この町に育った若者たちは成人式で祝福され、一人前の大人への羽ばたきをはじめます。春の卒業式では小学生たちが、別れと新しい門出を迎えます。

四月になると町中の神社や土手や公園の桜がいっせいに咲き誇る花の季節がやってきます。季節の移ろいはいつの日も、人々の暮らしに華やいだ彩りをそえてくれます。春にアカヤシオの花が咲き、また天然記念物の杉や松がごく身近に見られます。森をはじめとする周辺の山野の自然を季節におうじて気軽に楽しめるものも町の自慢です。

 

  変化に富んだ自然環境がレジャーやスポーツの魅力を倍増してくれます。夏といえば、盆踊り。日本人らしいコミュニティーの高まりがあります。


(ぼくは、ここで宍戸さんに尋ねずにはいられなかった。

「いま見ている世界の、どれだけが311に失われましたか?」

「90パーセントですね」)


秋、小高川の源流にある滝平の滝。阿武隈山系からわきだす水が多様な生き物たちを育み、南相馬の大地をうるおし太平洋にそそいでいくのです。食欲の秋、味覚の秋。農家はそれぞれ収穫の季節を迎えます。

秋風が冷たくなる季節、真野川の港からサケ漁の船が海に出ます。ここにはサケの定置網漁がおこなわれています。お腹からオレンジ色に輝く宝石のような海の幸が飛び出してきます。この季節には、海の幸、山の幸を集めた産業文化祭が、それぞれの町で開催されます。

大悲山薬師寺では月明かりコンサートがひらかれます。手作りの芸術祭を出演者も観客も心ゆくまで楽しみました。


-----大晦日、夜明け前から神社に集まり、新しい年の幸せを願う人々の群れ。調和と協調と交流を合言葉に発展をつづける町、南相馬、新たな一年が、こうしてはじまります------



この世に、これほどせつないビデオがあるだろうか。

これは311以前の南相馬の記録だ。しかし、鑑賞しているうちに何やら「失われた日本」、いや地球への挽歌にさえ思えてきた。

この国が、この地球が「発展」の名目のために何を犠牲にしてきたのか、突発的にはじまった砲丸作りを目指す旅の途上に、こんな体験が待っていようとは!

南相馬にたたずむ書記長の彼方の雨空に千人の組合員が行進する幻が見える。


ぼくらは博物館をでて、いよいよ、砂鉄の海岸へと、浪江へ請戸へと車を走らせた。


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ぼくは『PINK FLOYD ENDLESSRIVER』を聴いている。


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雨が激しくなってきた。土砂降りだ。

原発は7キロ先にある。

                                                     

【追記】  ちなみに戦時中、南相馬には神風特攻隊の訓練飛行場があった。ここの飛行場で訓練を重ねたあと、各地の飛行場から出撃したのだった。

さらに、ちなみに1920年には201mの当時東洋一の高さを誇る磐城無線電信局の無線塔が南相馬原町には建っていて、関東大震災の情報をサンフランシスコにいち早く通信したのだった。そのときの電文も展示されていた。情報機関として、最先端であり、その無線塔はいまでいうスカイツリーだ。いまは、解体してしまった。土台だけが残されている。まさに鉄の文明だ。


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さらに、原町には、世界的なコメット・ハンターがいた。解説に曰く。

〈ハネダ・カンボス彗星は、昭和五十五年(一九七八)九月一日、原町市馬場川久保の羽根田利夫によって発見されました。少年時代から天文学に興味があり、手作りの観察小屋・天体望遠鏡を用いて、本格的な天体観測を始めていました。彗星発見当日は、曇り空で、観測には不向きの天候でしたが、愛犬コロに誘われて観測を始めたことが発見につながりました。昭和一三年(一九三六)から四十年間、六百時間にわたる不断の努力と根気をもって「捜査」を続け、世界最年長のコメット・ハンターとなったのです〉

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東北の一地方としては、南相馬はあまりに先端的で勇壮で歴史的でロマンあふれ、そして運命的だ。

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