森永博志のオフィシャルサイト

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画在巷間伝


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【1】あの路地で夢見ていたころ


まったく面識はないが、4歳年上のコラムニストの中野翠さんの最新作は『あのころ、早稲田で』、帯に「60年代というトンネルの出口は嵐だった」とでっかいコピーが躍り、その下に、「早大闘争、社研、吉本隆明、『青春の墓標』、『ガロ』、GS、喫茶店、ATG、ゴダール、アングラ演劇ーーあの時代の空気が鮮やかによみがえる」。


自分の60年代とかぶるところもあり、購入し、つまみ読みしていると、以下の文章にあたった。


横尾忠則、宇野亜喜良、灘本唯人、黒田征太郎の名をあげ、中野さんは告白する。



ーー私の心に「イラストレーターになりたい」という野心が芽生えた。以前から絵を描くことは好きだった。まったく自己流だったので、全然自信なく、「思い切ってセツ・モードセミナーに転校して修業しようかな」とも思った。セツ・モードセミナーはイラストレーターの長沢節さんの主宰する画学校。セツさんは大正生まれで当時五十代だったが、ユニークなファッションの(時に巻きスカート状のものも)や映画好きとして知られていた。絵のうまい同世代の中で恥をかくのがおそろしく、セツ・モードセミナーに転校するというアイディアは、サッサと断念したのだが・・・



そうだったのか、と少なからず感慨があった。

長沢節は僕にとっても、植草甚一と並ぶ当時のカリスマであったし、セツ・モードセミナーはたくさんの友人やガール・フレンドが通うクールなアート・スクールだった。



そのセツ・モードセミナーは2017年春に閉校していた。



ある日、用事があり、中央線の学園都市・国立に行き、駅前のカフェ&レストラン〈ロージナ〉に入った。


5月半ば、晴れ渡り初夏を思わせる気候。


町はどこまでものどかな空気に包まれ、懐かしの〈ロージナ〉で過ごす時間に至福を感じた。


あのころ、いまをさかのぼること、50年前、1960年代の半ば過ぎ、中野さんはすでに早稲田大学の学生、自分は高校生。


よく、〈ロージナ〉のある路地にいた。


この路地には他に〈邪宗門〉というアンティークで飾られた本格的カフェがあり、文学やアート好きの若者たちが集っていた。


〈邪宗門〉は閉店し、廃墟化した店舗がそのまま、何やらいわくつきな印象でのこっている。


ちなみに、いまはなくなってしまったが、〈邪宗門〉の真裏にアパートがあり、その一室に中学の時に親しくしていた彼女が住んでいて、久しく会ってなかったが、新宿で偶然再会し、懐かしさのあまり、ともに国立に帰り、その彼女の部屋にあがった。


「やる?」といって、彼女が押入れの戸を開けると、中はぎっしりXXがつまっていた。


それは1970年であったか。


そのころ、国立の谷保天神の梅林の裏には元米兵相手の娼館があり、そこにはフーテンたちが住んでいたし、隣の国分寺には神田生まれのジャパニーズ・ヒッピー一号の山尾三省主宰の〈部族〉なるコミューンや武蔵野美術大学もあり、また、この地区には忌野清志郎や山口不二夫もいた。


かなり、ヒップな地区ではあった。


〈ロージナ〉にいると、そのころのことを思い出し、都心の世の騒動の只中にいた中野さんとは違う60年代へののどかな追想にひたっていた。


夢から覚め、紅茶代をレジで払っていると、そこにピンナップされていたいくつもフライヤーのうちの一枚が目にとまった。


それは、見覚えのあるモード画に「生誕100年 長沢節展」とあり、ギャラリーはかつて仕事もした本郷の弥生美術館だった。


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中野さんのセツ話を読んだ直後、しかも、〈ロージナ〉で60年代の回想にひたっていたその日に、誘惑的フライヤーとまるで60年代のあのころを思わせるシチュエーションでの出会い。


すぐ、早乙女に、「いっしょに行こう」と誘いのメールを送った。



【2】展覧会を見終わって


M:今日、展覧会見て、わかったけど、セツ・モードセミナーは絵のテクニックを 学ぶ学校ではなく、セツ先生が言ってたけど、「社会にでて通用する人間になってください」というね。絵描きとして、成功するしないなんてことでもなくね。成功した卒業生は多いけど。

S:もちろん技術も教えるけど、小手先の技術なんて教えないよね。こうやって描いたら、こうなるみたいのはない。それに、気づかない生徒もいるし、そういう生徒は長つづきしない。

M:セツ先生は若いころ、文化学院に行ってたんだよね。西村居作が校長の。そこも専門学校というより、人間形成のための場でね。

S:凄い影響大きかったんじゃないですかね。セツ先生には文化学院の。

M:思うにね、国家壊滅的な戦争をしてしまったことにより、民族のアイデンティティーも喪失し、人の魂のよりどころがなくなり、そんな時代に文化学院は人間性復興の機関として機能してたんじゃないのかな。

S:そうだと思いますね。特に戦前にセツ先生が文化学院で習っていた先生たちは、哲学者だったり、思想家だったり。特高につかまって、獄中死した人もいて、感じることもハンパなかったと思います。セツ・モードセミナーの舟町の校舎も、文化学院に似てます。

M:セツの卒業生をたくさん身近に知ってるんだけど、みんな個性的な人間で、遊び人だよね。

S:遊び人ですよね。あのころ、VANもそうだったけど、ただ服を作ってるというんじゃなくて、そこにはジャズもあったし、車も、みゆき族みたいな流行もあったし、影響力が広いですよね。セツ・モードセミナーも同じだったと思います。いろんな世界とつながっていて、ひとつになっていた。

M:あのころは音楽もそうだったね。歌謡曲中心の芸能界に、新しいライフスタイルとともに、新しいウェーブが登場した。

S:ですね。ユーミンだったり。

M:ムッシュだったり。ただのシンガーではないものね。

S:ええ、モロ、ムッシュですね。

M:セツ先生は、絵の技術ではなく、何を教えようとしてたのかな?

S:自由ということじゃないですかね。自分の思った通りに生きろ、自分のいいと思ったものを信じろっていうことじゃないかなぁー。それはマッケンさんからも 教わったことだけど。

M:でもね、だいたい若いときは、自分がホントに何が好きなんだか、、

S:わかんない、わかんない。

M:単なる憧れでしかなかったり。自分の本質じゃなくてね。よくあるじゃん。

S:いっぱいありますよね。今になって思うと、ぼくもセツ先生とは随分ちがうなって思うこといっぱいあります。

M:そりゃそうだよね。生きてきた時代が違うんだから、しょうがない。

S:でも、いっとき、セツ先生が好きだと思ったものを好きになろうとしてたことが大切だったんですね。

M:セツ先生の生き方は、たとえば明治以降、国家が国民に押しつけたマッチョイズムに対する猛烈な反発とか。

S:あと、明治以降はすべてにおいて答えがあった。殖産政策も、イギリスという手本があって、絵も西洋に手本があった。

M;一番いけないのは、生徒をタテ構造のなかに入れてしまうことだよね。

S:野球をやってるとよくわかります。

M:セツ・モードセミナーは人間の関係が、タテではなく、ヨコだったでしょ。
ヨコにいくといろんな可能性がうまれてくる。タテだと、ひとつになっちゃうんだよ。成功とか。

S:上に立ってると下が見えないし、下にいると上にいちいち機嫌とらないといけなくなる。

M:職人は悪しきタテ構造で生きていくしかないんだけど、クリエーターは、そうなったら終わっちゃうんだよ。ぼくらマガジンハウスで『POPEYE』とか『BRUTUS』とかの編集やってるとき、上に木滑さんとか、石川次郎さんたちがいたけど、上下感ゼロ。仲間みたいな。こっちは「キナさん」「ジローさん」と呼び、向こうも「マッケンジー」って、もう気安く呼び合い、好きなことやらせてくれて、売れなくても、なんにも言わなかったね。

S:セツ先生も説教なんかしなかった。

M:セツ先生が生徒連れて、いつも写生に行ってた町、何処?

S:千葉の大原です。漁港です。

M:今日、展覧会で、その話を読んだら、漁港の人たちも、セツ先生たちが来るのを楽しみにしてたって。

S:すごい歓迎されました。

M:それが凄いと思う。

S:土地の人たちが、千葉の方言を話して、独特でね。

M:セツ先生は誰に対してもオープンだったんだね。アーティストは偏屈や孤高の存在になっちゃったりしかねないからね。

S:ぜんぜん違う。屋台にいるオッサンみたいな感じで。

M:海外に行ったときも?

S:カッコよかったねー。パリのカフェにいると、大声で「ギャルソーン、ギャルソーン!」って呼んで、コーヒー、注文したりするんですよ。俺は、それを凄くカッコいいと思うタイプだけど、一緒にいてそれを恥ずかしいと思う生徒もいて。そういう人の絵はちっちゃい感じしましたね。今日、ぼくがセツ先生を知るきっかけとなったものを持ってきました。

(と言ってバッグから『POPEYE』を取り出し、ページを開き)

S:これなんだよねー。コレです。こんなちいさな絵です。


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M:ほんとだ。こんなちっちゃな絵見て、感動したの?

S:そう。何、この絵! カッコいいーって!

M:へえー、それはジャズの匂いとか?

S:アイビーと不良。不良がスーツ着てる感じ。あと、コレも凄かったなー!


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S:『HOTDOG-PRESS』の50s特集。セツ先生の絵はないけど。俺が高1くらいのとき。

M:これ、俺がやったやつだ!

S:だと、思った! コレは凄いインパクトあった。

M:スタッフ・クレジットには構成・文、須永博になってる。そのころ、俺、『POPEYE』の仕事やってて、対抗誌の『HOT-DOG』とかやっちゃまずいんだよ。

S:これは数ある50s特集のなかでも、相当なもんだと思いますよ。

M:大掛かりだよ。クリームソーダの全面的協力で制作した。ところで、セツ先生はモード画に関して何か言ってた?

S:セツ先生が言ってた言葉で、俺、いまだに忘れられないのは、モードの画の場合は、例えば、服が30万円、50万するじゃないですか。絵に描いたら、その値段の服に見えるのか否かってことで。安い服着てても高く見える絵がある。

M:植草甚一さんは、安い古着着ててもクールだったよ。

S:そうですね。それが高級なものに見えるかどうか、そのコツはわかるか? 聞かれて、そんなのわかるわけない。セツ先生は「それは顔だよ!」と言うんです。

M:でも、セツ先生は人は後ろ姿が美しく、人の顔は醜いと言ってたよ。音楽の絵だと、顔描かなきゃいけないから、似てるか似てないか、制約ある。モード画の場合は顔いらないじゃん。シルエットでもいい。

S:ボッテガベネタの仕事の時も、写真じゃわかんないこといっぱいあって、実際の服を見せてもらったんですよ。見たら、スゲーこってるなと思ったけど、絵では表現できない。それでも、ひと筆、ふた筆の違いで、どう表現したらいいかなーっていうのは考えましたよね。

M:セツ先生は、いつも、問いを投げかけてくれてたのね。その答えは自分で探しなさい、と。

S:自分で探るしかない。

M:その探るこころが大事なんだね。探求心だよ。

S:禅道場ですね。それは顔だよって言われても、当時は意味がわからなかった。

M:セツ先生はスターの顔も描いてるけど、あんまりよくないね。

S:わかります。

M:顔の絵はあんまり躍動感はないもんね。生きてる感じは。全身だとある。写楽とかピカソの顔の絵は凄いけど。

S:セツ先生はあんまり顔には興味なかったんだと思う。顔の絵はテキストにつける挿絵で、プロマイド的に描かなきゃいけなくて描いた。

M:そんな感じだね。

S:本来の長沢節の絵は凄いパワーがある。見てると疲れる。でも、むかしは、俺も描きてーって、凄いパワーくれて。そのくらいセツ先生の絵はずば抜けてた。俺もやりたい! やりたい! そう思わせる。

M:それはロックンロールでいうところの初期衝動だよ! それは己を鼓舞するパワーなんだよ。別のものになるっていう。一番怖いのは、手抜きとか妥協とか、自分にウソつくことなんだよ。金のためとか、忙しいからとか。それやってると、描きたいっていう気持ちがおりてこなくなっちゃうんだよ。そうなると、悲惨だよ。アル中になったり、ドラッグにおぼれたり、破滅する。

S:俺は本当にそうなったらどうしようって思うけど、多分、なんないんだろうな。

M:俺は飽きっぽい性格だから、自分が飽きたときが怖いな。逆に、つくりたい気持ちがあるうちは人生大丈夫って思う。必死にはやんないけど。

S:今日の天気みたいに、いままでさんざん経験してきてるのに、今日はじめてみたいな気分になるじゃないですか。東京の裏町を歩いてても、アレッ、ここ、北京だっけ、青島だっけ! っていう気持ちがあれば、大丈夫だと思う。

M:俺はいま何処の町行っても、外国だよ。浅草橋、国立、立川、谷保、日暮里、横浜黄金町、大森、蒲田、、

S:ですよねー。

M:昨日は町田まで落語聞きに行って、帰り、いつも通過してた東神奈川に寄ってみようと駅でおりて。もう、その瞬間から、異国なんだよ。

S:俺もいま、野球場、子供連れて、いろんなとこ行くじゃないですか。そこで、桜が咲いてたけど散っちゃったなーとか必ず、俺、声にだして言ってますもん。
先週までピンク色だったのになーとか、声にだして。それは野球とはまったく関係ないことなんだけど、それが、絶対大事だと思う。

M:そのこととセツ先生とは何か関係あるわけ?

S:あると思う。

M:写生のときとか?

S:言ってましたね。光がまったく違うのわかるかー! とか。

M:なるほど、そういうことか。

S:俺も、子供の前では、先週と今日、同じグランドで野球やっても、景色がずいぶん違うなーとか口にだして言うようにしてる。

M:そのときの感情と絵を描くときの感情は?

S:まったく同じです。なんだこれっていう気持ちがあれば。

M:それは人生にも言えるね。

S:セツ先生がよく言ってたのは、自分のよさとかカッコいいところは、俺ってもうちよっと背が10センチ高かったらよかったのになーとか、自分で、俺はこうなったらいいのにって、そんなんじゃない。それは他人が見つけるものだからって。お前のよさは他人が見つけるぞ。それが、社会で役立てるような人間になってくださいっていう長沢節の究極のメッセージだったかもしれない。



という早乙女は、世界中のクール・ガイを厳選して紹介するドイツ発行の『WE ARE DANDY』に、ただひとりの絵描きとして選ばれ華々しく誌面を飾ったそれをセツ先生が見たら、「お前は、わかってたんだね」と言ったはず。


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【PS】このテキストは日光で作成した。その翌日、日光の知人のところに設けた書庫を訪ね、ひさしぶりに『デュシャンは語る』を見つけ出し、夜に読んでいたら、



人が絵を描くのは、いわゆる自由な存在でありたいからです。



というデュシャンの発言を見つけた。



つづく