森永博志のオフィシャルサイト

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THE LIFE IN A DAY

早乙女道春のホームページが完成し、9月13日開設された。他に類をみないスケールである。ひとたび開けば、見事に会場構成された一大展覧会場に足を踏みいれた印象です。そして早乙女道春という稀有の画家の全身全霊かけた画業に感動することでしょう。

是非、まずは指をお運び下さい。

saotome-michiharu.com

尚、より深く早乙女道春ワールドを体験してもらいたく、拙著『続ドロップアウトのえらいひと』に収録したプロフィール・ストーリーをここに転載いたします。

絵師・早乙女クンのことを書こうとおもって、連絡をした。もう13年のつきあい。出会いは西麻布の夜明けの路上。いまはすっかりすたれてしまったが、通称ウォール・ビル。いっときは白人野郎のストリップに日本人のババアが群がってたJ・メンズ・バーでもりあがってた。地下は13年前、〈ウォナダンス〉という最新のクラブだった。そこで踊りつかれて夜明けに表にでたら、早乙女クンが作品のファイルを持って立っていた。誰かアートディレクターかエディターに売りこもうとしてたのだ。

すごくないか、この意気ごみ。出版社や事務所をたずねてくのがフツーで、路上で売りこみするなんて、ファイルで見たジャズ・イラストレーションもすごかったけど、僕は何よりも、その売りこみの大胆不敵さにほれてしまい、そのときから、組んで仕事をするようになった。

仕事でいっしょに日本を旅したり、北京に行ったり、クラブ・イベントをやったり、プライベートで夜の街を遊びまわったり、話す機会が多いのでいろいろと彼の話を聞いているのだが、このさい、ちゃんと訊いてみようと、連絡した。

「ゴッホ展、見に行こうよ」と誘ったら、すぐに車で飛んできた。会場の東京国立近代美術館のある竹橋にむかう車の中で、ゴッホについて僕らは話しあった。僕は、展覧会のことを本屋でもらったしおりで知った。しおりには“街角のカフェ”というゴッホらしからぬストリートの絵が印刷されていて、その絵をひと目見て好きになってしまったのだ。

僕は、その絵の話をした。

「すごくない、あの絵、ストリートの光景描いてるんだよ。あの時代には斬新だったんじゃない?」

「そうです。他に、僕は“ビリヤード台のある部屋”っていう絵が好きなんですけど、そんなの描く人なんて他にいなかった。あの時代って、西洋はかかなきゃいけないものって決められてたんですよ。それってキリスト教や王様に決められてたんですけど。一種の権威です」

「好きに描けなかったわけね」

「決まりごとの中で描いてて、そういうの知ってくと、つまんねー世界だなっておもっちゃって。全然、自由じゃないし」

「じゃあ、、そのゴッホの“街角のカフェ”なんてもうとんでもないわけね。“ビリヤード台のある部屋”とかも。もうパンクみたいなもんか」

「ゴッホは正式に美術の教育うけてないからさ、その決まりごとに反抗してたんじゃないかな。つまんねえなみたいに。いいじゃん描きたいもの描いたってって」

と、まあ、こんな感じでゴッホについて語ってたんだけど、早乙女クンもぜんぜん決まりごとの中におさまってない。

僕がオーガナイズしてる〈レッドシューズ〉の“第3土ヨー日”では、毎回バンドのビートにのって、その場でロッカーやネエちゃんをアクティブに速描。大ウケしてる。絵のスタイルも、そのつど、いろいろ変化する。旅の仕事では、美しい水彩画になったり、音楽雑誌ではインタビューの最中に、かのE・YAZAWAをペン1本で素描したり。

花村萬月の時代小説のさし絵、佐藤雅彦の小説ではタメでコラボレートし1冊の単行本『砂浜』に、斎藤考とも最近タメ組みして中国の古代詩をテーマにした絵本『国破れて山河あり』を制作……そのどれもが微妙にスタイルがちがう。そんな絵描きは現代ではまれだ。みんなイラストレーターは、スタイルをひとつに統一して商売するのが常識。

でもさ、絵とか音楽なんて、いちばん自由であっていいものなんだよな。遊んでいいものなんだよな。

早乙女クンが絵に目覚めたのは3歳のとき。人より早い。家は、東京は荻窪の米屋。長男だから稼業をつがなきゃいけなかった。だけど、3歳で絵に目ざめた。それは親があたえてくれたレコードつき絵本。話は『三匹の子豚』『アラジンの魔法のランプ』『人魚姫』など。レコードは声優によるセリフ、音楽でミュージカルじたて。

「ものすごく快感があって、絵見て音聴いていると夢心地になって気持よくねちゃう。子ども心に遠くへ旅した気分になって。いまでも、その快感が体にのこってて、それだけで絵を描いてる感じです」

そう、大事なのは快感なんだよ。

10代には早乙女クンは車にはまった。18歳でいすゞのベレットGTを中古で買った。ファッションはアイビー。車でもよく遊んだ。とくに自動車レース。横田の米軍基地の車好きの将校が主催するレースに毎月参加して飛ばしてた。

「それと絵は別ものの快感なんですよ」

将来何かになろうとは考えてなかった。絵は好きで描いていたが、それで身を立てられるとは思えなかった。やっぱり稼業をつぐのかなと漠然とおもいながら、ガソリン・スタンドでバイトして、とりあえず私立大学の夜間部に籍をおいていた。そして毎晩のように六本木、西麻布で遊んでいた。不良をやってたわけだ。

ある日、遊び仲間から〈セツ・モード・セミナー〉というアートスクールの存在を教えてもらう。そこは’60年代からあるイラストレーターの養成所。そこで好きな絵を勉強してみようとおもった。その話を両親にしたら、モーレツな反対にあったが、おしきって入学した。

そこで校長の長沢節に会った。

ひと目みて、「なんだ!?この人、すげえーって、その瞬間、自分の行く道が決まったんですね」。

長沢節は会津の出身。若いころは無頼派作家の織田作之助とも交友し、安保の時代には反体制活動の闘士でもあった。’60年代には自らもモード・セミナーの生徒の男の子たちにもミニ・スカートをはかせ世間を驚かすようなハプニングを仕かけたりしていた。〈セツ・モード・セミナー〉からはたくさんのイラストレーター、ファッション・デザイナー、スタイリスト、ミュージシャンが世に出て成功をおさめていった。

早乙女クンは長沢節が日頃いうことにショックをおぼえた。それは、たとえば、

「男らしさとか女らしさとかそんなものないんだよ」

ということだったり、

早乙女クンは街で不良してると、先輩からしょっちゅう、「男ってもんはよー」って説教されていた。だけど、先生の長沢節は、そんなものないんだっていう。

そっちの方が正しい気がした。決めごとなんてないんだ。そうわかって、早乙女クンは街で不良するのをやめて、はじめて絵を勉強しはじめた。絵に心をひらいていった。

早乙女クンの作風の自由さは、そこからきている。

米屋のセガレは、絵なんぞにうつつをぬかし家業をつがなかったけど、腹には米、だけど魂には絵と、根本を生きてるような気がするけどな。

「ええ、すげえとおもったものには素直に反応してきただけですね」

森永博志の『続ドロップアウトのえらいひと』(2005年刊/東京書籍)より

早乙女道春オフィシャルサイト画像