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28号であったか、巨大台風が関東圏海上を通過していこうとしていた。
近所のホルモン屋で飲んでいると、女将も常連客たちも、テレビの天気図を見て「明日、飛行機、飛ばないよ、飛ばない」とおどす。「明日は那覇行かないとこまんだ」。明日、那覇でトークショーがある。沖繩においては国家最重要機関の職員であるKが職務をはなれて、ぼくのトークショーを主催し、すでに前売り券をさばいている。明日、開演、午後7時。「飛ぶよ、飛ぶ」、ぼくは酔って、くりかえす。
★☆
開演30分前、トークショーの会場にジミーは姿をみせた。知人が主催する小柳ユキのライブを見てきたらしい。「短いおつきあいでしたが、お別れです」「何、言ってんだ、オッサン」。ジミーはコトバを吐く。「あたし、余命3ヶ月と医者に言われました」「いつ?」「おととい、倒れて」「冗談だろ?」「短いおっつきあいでしたが、グッバイ」「じゃ、ま、しょうがねえか。トーク、冥土の土産に聞いてってね」「グッバイです」。冗談だろ。
黙ってるわけないなと予想はしていたが、後半サーファー農夫の山城君をむかえて対話してると、棺桶に片足突っこんでるはずのジミーが、「山城、お前はサイコー、サイコーだよ! 」と声援おくるのはいいが、しつこい、声がでかい!! あげく、「森永は、いらなっい!」だって。
「つくった野菜は、けっこういい値で、ぜんぶ売れます」「それは、すごいね。いまなんでもモノが売れない時代に、つくったものが、すべて売れるって」「ハワイでは、サーファーは生計をコーヒー豆の栽培でたててるんだ。だから、山城君の生き方こそグローバルだよ」。
トークショーが終わると、ジミーは山城君をつれて何処かへ消えた。ぼくは主催者やスタッフたち、遠く東京、横浜から駆けつけてきた知人たちと、打ち上げに。
ジミーとは別々の、那覇の夜。
それにしても、那覇の夜は興奮弾でも撃ちこまれたかと思わせるほど狂熱的だ。店内は声も魂もふりきってしまうかのような異様なテンションの地元客であふれている。となりの団体はガラのわるいヤンキーたち。でも、気は良さそう。主催者のKは極道時代に後頭部をザックリやられたという刀傷を見せている。
「森永せんせーい! またイベントやりまっしょ!」熱い。
「いいよ」
昼に那覇に入り、午後の暇を浮島通りの〈モダーンクラッシック〉ですごしたが、主人の司は、沖繩にはニューヨークに本部をおくヘルズエンジェルズに対抗する、アメリカ人のアウトロー・バイカーたちがいて、本部はシカゴ、沖繩にはその数300人程、近々やつらの毎年恒例のパレードがあるんですけどね、と情報をくれたが、何度かそのアウトロー・バイカーたちを以前町や海辺で目撃している。
沖繩には暗部があるのではなく、世界でただひとつ兵器を持たない王国だった琉球は3000の武装薩摩軍の襲撃後、主権をうばわれっぱなしで歴史の暗部にのみこまれ、いまにいたる。歴史が無法を育てる。
ジミーとは矢沢永吉カラオケバーの〈タカギ〉で合流したが、乾杯すると、ジミーは山城君をつれて、松山のニューハーフ・クラブ〈セーラ〉へと消えた。
マスターのタカシに、「ジミー、余命3ヶ月なんだって?」と訊くと、ひろえさんから真相を聞いたという。ひろえさんとは、ジミーが再婚した奥さんで、ジミーには前妻との間に何人も息子と娘がいて、息子たちは各々3人子供がいて、ジミーは孫がたくさんいる爺さんなのだが、美しいひろえさんと再婚し2児をもうけた。まだ、3歳に満たない。60歳のときの子か。
ジミーは言う。「この間、うちのかあちゃんが人にあたしとどういう関係ですかってきかれて、ふつう夫でっしょ。それが、肉体関係ってこたえたんでっす。おっかしいでっしょ!」
という夫婦です。
ジミーにひろえさんが苦言を呈した。「いい加減にしてください」とは毎日のことだろうが、一昨日は、倒れてかつぎこまれた病院で、ひろえさんが「あんた、こんなことしてたら、子供が成人式むかえるまで生きられないでしょ!」としかったところ、ジミーは来年の成人式まで自分が生きられない、いまは10月だから、成人式まで3ヶ月!!、アルコールづけの頭でひどい勘ちがいし、ひとり騒いでるだけのことだった。
いまごろ「死ぬ、死ぬ」とほざいてニューハーフたちとまたバカ騒ぎして、帰宅は明るくなってからだろう。まったく沖縄一の大馬鹿野郎だ。
そんなジミーは家族のために3階建の豪邸を空港近くに新築し、今後、年老いて歩くのもままならなくなり、でも飲みには行くつもりらしく、酔って帰ったときのためにエレベーターを設置したそうだ。
自宅にエレベーターがあるなんていうセレブは、ほかにぼくが知るかぎりでは、このトリップ・リアリゼーション中国篇に登場する李さんの、恵比寿宅ぐらいだ。
沖繩の金持ちの家は大豪邸が多いらしい。というのも、大家族だからだろう。大家族の血縁によって、家業を守っていく、そういう習わしがある。墓の大きさに、祖先にたいする崇拝の想いがあらわれ、墓参りは家ほどもある墓のなかで死者とともに大宴会するらしい。
沖縄ヤクザ映画の傑作は深作欣二の初期の作品『博徒外人部隊』だろう。復帰前にロケをしている。主演は鶴田浩二、安藤昇、若山富三郎。当時のコザを見ることができ、貴重な映像資料といえる。ほかに中島貞夫の『沖縄やくざ戦争』も見ごたえがある。主演は義兄弟を演じる松方弘樹に千葉真一。サンシンにのって披露する千葉真一の沖縄空手が鬼気せまる。抗争のはて、松方の一家はちいさな家ほどもある墓に潜伏する。墓内でヤクザが食事をするシーンがある。それは、沖縄では先祖を供養する習わしだったのだ。
死は生に勝る。生はかぎりがあるが、死は永遠。宇宙に似て。無限。死は、旅立ち。 沖繩の墓は宇宙船だ。沖繩は死の王国だ。その死は尊い。
翌日、ジミーとは昼から朝までいっしょだった。携帯を今回所持してないので、朝、ジミーからホテルに電話がはいった。
「12時30分にホテルに迎えに行きまっす。それから三笠で食事しまっしょ」
「オッケー」
言われた時間まで、たっぷり時間があったので、歩いて公設市場まで行って 茶なぞを飲むうちに12時になったので、ホテルにもどると、表にひろえさんの車がとまっている。くるの、早! 車の中にはひろえさんしかいない。挨拶すると、ロビーにいますというので、気持ち足早に中にはいると、ジミーはソファにすわっている。「ずっと、待ってたんです」すこしごきげんななめだ。
12時30分のはずだろ。まだ、12時10分だぜ。ま、いいか。
「ごめん、ごめん。古本屋、行ってたんだ」
「あ、そうでっすか」
国際通りで琉球王朝時代の王様、王妃を御輿にかつぎサンシンの大楽団、花笠、中国からの使節団が華やかに行進する行列に偶然でくわし、「これでっす、これでっす。琉球王朝の、これが姿です。もりちゃん、撮りまっしょ!」と、ジミーがあおる、あおる。
iPADをむける。ジミーが、「ここです、このアングルでっす。あれも撮りまっしょ!!」、やたら興奮し、行列の警護にあたっている警備員に、「あんた、いらなっい!いらなっい!どきなさい!」と、完全、監督である。
「光です。影から光です。この影から、光へでていく」
ジミーに言われた通り撮影すると、確かに映像に深みがでる気がし、なるほど!
初めて見るぼくはその場の雰囲気にのまれているが、ジミーは冷静に見ている。
光と影。
「その影のなかから撮ってください!」
「了解しました、ジミー」
「これ、撮れたの、よかったでっす」
「じゃ、つぎは福州園に行こう」
「行きまっしょ!!」
のりがかっるーい。赤塚不二夫のマンガだ。
タクシーをひろい、かつて500年もむかし、中国人たち数百人が居住していた地にある福州園へむかった。シナリオ&ロケーション・ハンティングだ。
たどりつくと実に風情ある立派な蘇州式の庭園ではないか。スケールはちいさいが、造りは本格的だ。庭園内を散策する。
いまこの近辺は埋め立てられてしまったが、かつては海が迫り、港があったそうだ。ただ、庭園は数十年前に、記念碑として、福州からきた職人がこしらえている。それでも数百年級の風格がある。
中国福建省の福州が琉球王朝時代の貿易港だった。福州から来て那覇の久米村に数百人いたという中国人は船大工ほか、職人たちで、彼らが他の島々に技能を伝えにいった。黒糖もサンシンも福州から渡ってきた。
天気がいい。見晴らし台にジミーといる。
「あのあたりが松山でっす。ニューハーフたちが、夜います」ニューハーフの元も、中国の宦官か? な? ジミー?
いっときのチャイナトリップを終え、タクシーで空港に。まずは〈空港食堂〉。ここは最初〈エアポート・レストラン〉といってたそうだが、あまり人気がなく、ジミーの案で、〈空港食堂〉と改名したら、人気になったらしい。いつも満席だ。
食堂ではたらく少女たちが島っ子らしく、店名に合う。昼から泡盛を飲む。3階のそば屋〈琉球村〉に移動する。ここもジミー一族の店だ。人気店だ。
空港はジミーの飲みのテリトリーだ。これほど空港で飲んだのは人生ではじめてだ。
那覇に入港している旅客船の話しをしている。船籍はシンガポール。3000名近い客を台湾から運んでくる。船ではたらく人間も3000人近い。船はクルーズなので、ホテルになっている。今後、アジアからもっとクルーズ船をいれることになる、と国土交通省に最近おうかがいしたジミーはいう。いま、観光客は年間600万人、それを1000万人に。ジミーは、くりかえしいう。
6時、空港に迎えにきた奥さんの車に乗って、ステーキ屋〈バイ・ザ・シー〉に行く。アメリカ人の社長はジミーの友人だ。ジミー側近の馬場ちゃん、店のマネージャーを交えての会食会を終え、奥さんに盛り場の松山まで送ってもらい、いつものように〈ウォンテッド〉、〈青島〉、〈セーラ〉とハシゴし、〈セーラ〉ではショータイムに「さっ、撮りまっしょ」とまた監督気分になり大騒ぎしている。こんなはちゃめちゃな野郎、赤塚不二夫の他にはジミーしかいない。。ヘロヘロになって夜明け前にホテルにもどった。
翌日、昼にジミーと〈空港食堂〉で待ち合わせ、循環バスでピーチ航空の施設に。旅客ターミナルからはだいぶはなれた貨物専用の倉庫が通気孔むきだしで、チエック・イン、手荷物検査、搭乗ロビーらの施設になっていて、驚愕する。ウォーホルのファクトリーのようだ。
チェック・イン・カウンターに内藤ルネの絵で表紙をかざったフリー・マガジンがあった。それにも意表をつかれた。着目点が冴えている。これはとんでもなくヒップな趣向だ。完全、サブカルのりだ。第一、飛行機会社にピーチ。ありえない。コンピュータにアップルのセンスだ。ある意味、邪道だ。
この倉庫のマンマの内装は工場跡をそのまま美術館にするセンスだ。全面改装するのは1950年代のセンス。スポーツ・ジムをそのままディスコにするのが60年代だ、と言ったのはウォーホル。そのセンスだ。
搭乗ロビーにはワイン・バーもあった。実に快適だ。利用者は旅なれた感じの人たちが多い。トラベラー系の外国人も、黒人もいて、多国籍だ。
ジミーはバス・ターミナルにあるようなチープな椅子にすわり居眠りこいている。全体、空気は弛緩し、完全ローカルだ。料金も破格の安さ。ジミーは特別なのか、那覇ー石垣、片道2950円、ぼくがオプションつけて4000円ほど。
これは、70年代の思潮のひとつだったチープ・シックだ。
搭乗時間になり、ロビーをぬけると、いきなり滑走路だ。だだっ広いところにショッキング・ピンクの、ソー・ファンキーなピーチ・エア特製のジェット機が駐機していた。日本じゃない! 笑いだしたくなった。
70年代のあの島々を飛びまわっていた日々の享楽がよみがえってきた。
日常の感覚を断ち切るような、旅先への夢想を激しくかきたてるような、そのショッキング・ピンクの、スーパー・ポッブな、その機体。機内のシートも余裕。流れる音楽はUFO系のハイ・センスのラウンジ・ミュージックだった。JALもANAも終わった。機内食は大阪のお好み焼きだった。たしか?
窓の外にはサーフ・ボードのような翼。その下にエメラルドの海。サンゴ礁。島々。遊覧飛行だ。快適な一時間ほどの飛行中、ずっと映像をとっていた。
空港にはジミーの次男坊が迎えにきていた。名はケンタ。19万坪の土地を所有し、そこに古民家を集めた民俗村をジミー一族は経営していて、ケンタは副社長だ。
夕方には港に行った。ジミーは幼稚園児の孫をつれている。港には沖縄クルーズにきた旅客船が寄港していた。夜には出航するので、港には歓送のための楽団がきて演奏していた。
黄昏の光のなかに見る旅客船は、東シナ海にクルーズ黄金時代到来を感じさせる。しかし、近海はきわめて政治的な海域だ。連日のように中国海軍の船や戦闘機が領域侵犯してると、報道はさわいでいるが、尖閣に近い石垣はなんの緊張もない。 島内トレックに出ていたツーリストが自前のサイクリング車でもどってくる。平和な光景だ。
ジミーと孫は乗船していくツーリストたちに低く頭をさげ、「ありがとう」とくりかえしている。天使のように可愛い孫にみんなカメラをむけている。「ありがとう、ありがとう」、ジミーはくりかえし、くりかえし、お辞儀している。孫もお辞儀している。
クルーズを企画し、シンガポール船籍の船をチャーターしたのは、ジミーの知人らしい。この港で見た光景は映画の原案作りに閃きをもたらした。今回は、そのために石垣にきた。
夜は、ケンタの奥さん、息子3人と丘の上の焼肉レストランで食事をした。子供たちはゲームに夢中になっている。町にもどり居酒屋に行くと川平湾のグラスボートの女性経営者がいた。6000坪の土地を海辺に所有しているという。「どうにかならないかしらね」。
土地の話をしているとアメリカの田舎にでもいるみたいだ。
ジミーの一族は石垣からフェリーで30分ほどの黒島にも広大な土地を所有している。そこの海亀研究所のスポンサーでもある。
地元の知人たちと合流し繁華街のカラオケ・バーに流れた。那覇のようにはもりあがらず、ジミーが「かえりましょ」というので腰をあげた。バーには東京からやってきて、石垣に住んでるという美人がいたので、明日、夜、食事する約束をした。というか、ナンパ?
タクシーでホテルにもどり、ジミーの部屋で缶ビールを飲んだ。
「このあいだ、台風のとき大浜邸で、ジミーが歌、書いてくれっていってよね」
「お願いしたさ」
「じつは、もうできてんだ」
と、iPadのメモに書いた「花鳥風月」を読みあげた。
花は心に面影運び
貴方を恋しく星空仰ぐ
鳥は心に都を唄い
貴方の声に祈りを捧ぐ
風は心に傷跡(きずあと)しるし
貴方と出会った月夜を想う
月は心の旅路を照らし
貴方のもとへ海原越えて
この島のまことの名は 琉球
戦さよりも宴(うたげ)を愛し
花鳥風月 久遠(くおん)の調べ
この島のまことの名は 琉球
黄金(こがね)よりも珊瑚を尊(たっと)び
花鳥風月 久遠の調べ
花は心に季節を告げる
貴方を慕う暦はひとつ
鳥は心を天衣で包み
貴方の夢を優しく誘う
風は心に白い帆かかげ
貴方をいつも見守っている
月は心に光を満たし
貴方に会える願いが命
この島のまことの名は 琉球
剣(つるぎ)よりもサンシンを手にし
花鳥風月 久遠の調べ
この島のまことの名は 琉球
憎しみよりも絆に生きる
花鳥風月 久遠の調べ
「ぐ、ぐ、ぐ」
ジミーが眼を真っ赤にしている。肩をふるわせている。
「これでっす。これ-------」
ふーっと、意識は一日の終わりの扉を開けていた。
いま、石垣にいる------ん---だ--------。
おーい、ジ----ミィ-------。
部屋の電話がなっている。
「--------」
「今日、あたし、那覇にもどりまっす」
「そうだったね」
「いまロビーにいまっす」
起きて朦朧とした頭で下におりていった。
「俺、きょう、どうなってんだっけ?」
「9時50分のフェリーで黒島、行ってください。向こうに若月っていう研究所の男がまってます」
ジミーは空港にむかった。ホテルの向かいが離島にわたるフェリーのターミナルだ。以前は別の場所だった。もっと風情があった。町も港町の匂いがしたが、ひさしぶりの石垣は全体、再開発されてしまっている。再開発は風情を殺し空気を虚脱させる。いいことなんてひとつもない。
ホテルには大風呂があって朝から入れる。入浴する。那覇で泡盛まみれになった体を清める。なぜか、こういう時間、北井、藤田、日野原、讚平、松山、寺崎、ヨシオ、ケンチャン、景山、橋本、ジョー、戸井、伴------酒飲みで早死にした男たちの面影を次々に思い浮かべる。切々たる想いに、湯を顔にぶつける。
気分一新し桟橋から船に乗る。船は港を離れ黒島に向かう。正面に西表、右手に小浜、左手に竹富の島影。海原は青さを増していく。紺碧だ。
竹富を過ぎると、海は異様な青味をおびる。珊瑚礁に入った。
全身が別天地を感覚する。その海域は空気も異なる。
30分ほどの快走で黒島に着いた。東京湾のお台場ビーチの船着場ほどしかない。
上陸すると、ひとりの男性が「もりながさん?」と声をかけてきたので、「わかつきさん?」と、お互い確認しあって彼のオンボロ・バンにのって研究所へ向かった。
ちっぽけな島なのにアフリカのサバンナみたいな広がりを感じる。そこいらじゅう牧場だ。そこに低木がたち、大きな墓もある。そして、牛、牛、牛・・・どう見たって、これは谷岡ヤスジだ。笑ってしまう。
ひとよりも牛の方が多いし、孔雀も繁殖していると聞いた。でも、デザイナーの〈生意気〉は沖縄の島々のなかでは黒島が一番好きらしい。
研究所に到着した。台風でやられたか、屋根や壁が破損したコテージが建ち並ぶが、「もう営業やめたんです」と若月さん。前は〈マリンビレッジ〉と称していたらしい。そこがジミー一族の所有地らしい。
若月さんが展示室に案内してくれ、海亀の甲羅の裏の骨組みを見せてくれる。凧の骨組みようだ。
いつも、どうして人間は自分で頑丈な骨を製造できるのか、不思議に思っていたが、海亀が自作した骨組みもじつに美しく工学的だ。生命機能の不思議を感じる。
展示物は貝類、珊瑚も多く、しかし、ひときわ目をひくのは巨大な金属の物体。これがジミーが言ってたロケットの破片か? 展示室には漂着物も飾られていて、それは種子島宇宙センターで打ち上げたロケットの破片が波に運ばれて黒島まで流れついたのだった。
ロケットの破片が島に漂着したときは大騒ぎになり、あるおばばは「人は生きてたか?」と心配したという。まだ日本のロケットは無人の段階なのだよ、おばば。また、浜辺にはかなりゴミが流れ着くが、おばばは「海はえらいのう。ひとがすてたゴミを返してくれるんだから」と、皮肉?
裏庭の日影で若月さんとお茶した。若月さんは九州男児だが、母上が沖縄のひとだったので、子供のころから沖縄に惹かれ、大学は琉球大。なんの専攻をしたのか、聞き忘れたが、黒島にきて、もう20年も海亀の研究をしている。
いろいろ話を聞いたが、やはりお化けの話はリアルだった。やはり、海原で感じたように、ここは異次元だ。
考えてみたら、牛2000頭に対し、人間200人。人間はマイノリティーだ。人と車であふれた都会から来ると、それがおかしく感じる。黒島牛は日本各地、牛の名産地へ買われていき、そこでブランド肉になる。ブランド牛もじつは偽装ギリギリだ。
若月さんが島を案内してくれた。何にもない。牛だけ。孔雀といっても、あの羽根を広げたら華美な孔雀とはちがい、雌が異常繁殖したのか、野原に見る孔雀はキジだ。他にカラスが繁殖している。
集落は竹富と同じ石垣に囲われた瓦屋根の民家。まだ雨を生活水にしている家もあった。商店は一軒。食堂は集落には見なかった。あまりに素朴だが、電信柱が集落にめぐらされていた。やはり、電力に支配されていた。電柱は醜い。
また、小中学合わせて生徒は13人、教師も13人の学校は2億円の工費で建設され、生徒一人当たりの工費は世界一かもしれません、と若月さんは言う。
「海亀の散骨、かんがえてるんですけど、どうおもいます?」
「散骨?」
海原の遠くまでのびた桟橋の先端で若月さんと話している。
海水は光の加減で、クリスタルに見える。
「いま、散骨を望むひと、多いじゃないですか?」
「そうですね、ぼくも土の中より海に遺灰まいてほしいです」
若月さんに、およそ20年前に竹富島のコンドイ浜に友人の遺灰を流した話しをした。その友人は40数年で閉じた人生の最後の旅先が竹富だった。また行きたいと言っていたが、願いかなわず死去した。
「故人の葬儀を島でしたあと、遺灰を海亀の甲羅に乗せ、海に放つんです。遺灰は、30分ほどで溶ける袋におさめておくんです」
「ぼくも、それを望みます」
夢のような話だ。そんなこと、できるのか? でも、死んで海に帰るイメージを持つことができたら、どんなに楽だろう。生きる意味も変わる。あの美しい紺碧の海に旅だつのだ。
最後の船が出る時間になり、石垣に戻る船に乗った。紺碧に輝く海原を船は激しく水しぶきをあげながら快走する。行く先に大都会が見えてきた。石垣は海上のメトロポリスに想えた。
石垣の港では、これから竹富に渡るツーリストが船に乗りこんでいた。ダイビングの道具を抱えた白人もいる。彼の両足にはタトゥーが入っていた。異国情緒さえ感じた。
夕方には、ホテルで彼女と会った。ホテル内のレストランで食事をしていると、隣の席に民俗村の代表の兼島さんがやってきて、ぼくらを見て「あれ!」とおどけた表情を見せた。兼島さんはインド人のような顔をしている。長いヒゲがピンと横にのびている。
「えへっ! 彼女、昨夜、カラオケ屋でナンパしたんです」
「ナンパ!?」
「そうだよね、ナンパしたんだよね?」
彼女に聞くと、
「ええ、ナンパされたんです」
彼女は笑う。兼島さんも笑い、隣の席に消えた。
それから、彼女の島暮らしの話しを聞いた。東京では映画のプロモートをする会社にいたそうだ。映画の話しをしていると兼島さんが、泡盛のグラスを持ってきて、「飲んでください」と言う。
また、彼女と話していると、兼島さんが泡盛を持ってきてくれる。兼島さんが、大魔術団の団長に見えてきた。不思議な人物だ。
彼女が仕事に行く時間になって別れて、部屋にもどり、気絶するように眠りについた。那覇に入った前夜もほとんど眠っていず、トークの日も夜は飲み明かし、その翌日はジミーと夜明けまで、石垣の初日は午前1時にはホテルにもどったが、ジミーの部屋で朝まで飲み、ほとんど寝ずの日々だった。心身は疲れ切っていた。
やっと眠りにつける。海亀の散骨を想像しながら、気を失った。
翌日、兼島さんが車で迎えに来てくれた。那覇便まで時間があったので、民俗村に向かった。兼島さんの元に来客があったのだ。車のなかで、石垣牛の話しをした。
「うまいんですか?」
「高い肉なら、そりゃ、うまいですよ。でも、食べ放題、1000円の肉がうまいわけないですよ」
と、ごもっともなことを言った。
民俗村に着いて、兼島さんが来客の相手をしている間、村内の古民家を見に行った。何度見ても美しい。民族色が強いわけではなく、素朴な造りに、逆に高度な生活観を感じる。質素とはちがう。建材にこだわりを感じる。主人の趣向も感じる。
家とは、本来、こういうものではないか?
兼島さんと、空港に向かう。
「琉球の文化をまもらなければ、と思ってます」
「村の家は素晴らしいです」
若月さんの話をした。海亀の散骨。
「どうですか?」
「それはいい!」
「しかし、沖縄の男たちは変わり者ばかりですね」
ハッハッハツと大声あげて兼島さんは笑い、そして言ったのだった。
「あんたも変わってるよ」
「えっ、ぼくが?」
「だって、ナンパしてたでしょ。ハッハッハッ」
那覇行きのジェット機に乗り、那覇空港で羽田行きのスカイマークのターミナルに向かうと、ロビーで、あれれ、馬場ちゃんと出くわした。
「あっ、森永さん!」
「あっ、馬場ちゃん!!」
同時に声をだした。