森永博志のオフィシャルサイト

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ピカレスク・アイ2

2話


はじめてレッドシューズでブラサキを見た瞬間から彼らの音楽、そしてリーダーの甲田伸太郎にひかれていた。

そのへんのことは、このWeb内の画在巷間伝で早乙女と語りあった。

ブラサキを追求することで、それまで自分が知ることのなかった音楽の真髄を知ることになるだろうという予感のもと、彼らのライブに何度も足を運んでいるうちに、ついに渋谷クアトロでの、伝説のホンカー、ビッグJとの2度にわたる共演、元サッチモ楽団専属であったジョウエル・ブラウンとの共演を見て、演奏と歌唱に全身全霊をかけたライブの凄まじさにうちのめされた。

共にライブは事件だった。

いったい、どのようにして彼らの音楽が生まれてきたのか知りたくなり、甲田にブラサキ以前からの遍歴を聞き、この連載がはじまった。

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ここで、想像を絶するような奇妙なことがおこった。

昨年の秋、ひょんなことから北品川にあったライブハウスのリニューアルをやることになった。

店の名前をスタジオ・シュールからシュールズ・クラブにかえ、空間そのものにアートワークをほどこしたり、ヴィンテージのジュークボックスをいれたり、音響システムを進化させたりし、12月には完成した。

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そこで、甲田に連絡し、見に来てもらった。

ブラサキのライブをやってもらいたかったからだ。

当日、京急線北品川駅改札口で待ち合わせて、踏切を渡り旧東海道にはいると「この街に住んでたんです」と甲田がなつかしむように言った。

脇道の坂を下りはじめると、「この先のアパートに住んでて、その角を曲がったところにあった工場でバイトしてたんです」と言う角を曲がりシュールズへとむかうと、「ここです、工場はここにあったんです!」と甲田は興奮した口調で言った。

その三軒ほど先にシュールズがある!

なんというこった、この偶然の巡りあわせ。

そこはものすごくヘンピなところで、あとで知ったのだが、北野武の初主演・監督作品『その男、凶暴につき』のロケ地でもあった。

「ブラサキはここで結成したんです!」

「!!!」


イン・ザ・ビギニング!

ブラサキの物語はここからはじまったのか!


甲田は回想する。


ーーーニューヨークから帰ってきてから、ジャックナイフの活動はつづけてはいましたが、リーダーはバー経営をはじめて、自分はあくまで音楽の道をいきたいと強くねがっていたので、バンドは自然消滅したんです。

事務所からの給料もなくなり、けっこう生活が大変になり、安いアパートを探すうちに五反田の不動産屋で、北品川のアパートを紹介してもらったんです。

そのアパートに関して、笑い話ですけど、そこに住んでるうちに、あまりに狭いので、楽器置ける部屋を探していて、北品川の不動産屋を訪ねたら、「ここはおすすめできないけど、こういうアパートもあります」と言われたのが、自分のアパートだったんです!


バンドも解散し、ひとりになった甲田の次なるバンドのイメージは、「自分が本当に好きなもの。自分が主役で、サックスがメインのインストのジャンプ・バンドをやろう。そのジャンプの中にはスィング・ジャズもリズム&ブルースも、ロックにつながるような元気な黒人音楽ですね」。


その元にあったのが、ビッグJだった。

ビッグJとの出会は一枚のポストカード。ニューヨーク滞在中、甲田はある日、グリニッチ・ヴィレッジを散策中に立ち寄ったショップで、そのポストカードを見つけた。

それは、ステージにひっくりかえりサックスを激しくブロウするビッグJに白人の若者たちが熱狂するロックンロール史の中で有名なアイコンとなった写真だった。


ーーーそのときはビッグJのことも知らずです。でも、すごいインパクトがあった。いったい、この人は何なんだ、このおっさんは! 音楽はまだ聴いてない。唯一ヴィジュアルからはいった人です。でも、ポストカードは買わなかった。

それで、日本に帰ってきて、渋谷のレコード屋に行ったら、偶然にビッグJのレコードを見つけたんです。すぐにレコードを買った。もううちのめされました。

あとあと、伝説のホンカーとわかるのですが、そのときは何もわからない。それが何なのか、考えもしない。普通、音楽やってたら、分析とかするんでしょうが、ひたすらレコードを聴いていた。コレでいいんだ! そう思いました。


バンドの方向性は決まった。ここで、甲田はある突拍子もない決意ををする。

バンド時代に路上で演奏する度胸はついてはいたが、ひとりでやったことはない。やろう、と決意する。

アマチュアならよくある話だ。しかし、甲田はメジャー・デビューもし、日比谷野音の単独公演も成功し、ニューヨークでの活動でもそれなりの成果をあげたバンドのメンバーだった。

バンド時代にニューヨークに向かったように、今度はひとりで東京の路上に向かう。

北品川のアパートを出て、まずは近くの品川駅の高輪側の路上に立った。近隣のホテルの客が立ち止まり耳を傾けてくれた。投げ銭もそれなりの金になった。助走といったはじまりだった。


ーーー次に銀座に行って吹きました。場所は有楽町マリオンの前です。背中に背負っちゃいけない。壁から離れて、ラッパひとつ、路上に立って、自分のことなど何も知らない人に向かって吹く。緊張で体がブルブル震えました。

銀座はやっぱり客が違う。見るからに紳士が連れの女性に「にいさん、この子に一曲吹いて」と言われて知ってる曲なら吹いて、万札になる。知らなきゃ、金になんない。翌日、言われて知らなかった曲をおぼえました。

毎日金にはなりました。路上のひとりライブでは自分が一番稼ぎました。

それも生活のためにやっていて、毎晩、チッブを小銭まで数えて、はじめてです、自分が音楽で金を稼いだと実感したのは。小銭の価値をはじめて知ったんです。

ただ、マリオンから苦情が交番にいって、警官は「いつも楽しみに聞いてるよ」って言ってくれたんですけど、苦情がきたから、ごめん、移動してくれと。

それで、数寄屋橋の方に移って吹いてたんですけど、そのあたりは香具師の元締めみたいな人の縄張りで、うるさく言われるなとは覚悟してやっていて、ある日、その人が来たんですね。

もう、ダメだと思ってたら、その人が「にいさん、『ハーレム・ノクターン』吹ける?」と聞いてきて、『はい、吹けます」「俺、大好きなんだよ。ぶっちゃけ、ここで吹くのはダメなんだけど、おたくはひとりだし、俺の好きな『ハーレム・ノクターン』吹いてくれたら、条件だす。俺がやめろと言ったら、必ずやめろ。それだけでいい」。

その人、50歳くらいの凄くカッコいい人で。そこも一ヶ月以上もやってたけど、ある日、その人が来て、理由も言わず「やめろ」と言ったので「わかりました。ありがとうございました」とやめました。

そのあと三越の方に移ったけど、もう、潮時かなと思い、路上でやるのはやめました。


ジャクナイフのメンバーには現ブラサキのメンバーのコウもいた。

甲田とコウはバンド解散後も付き合いがつづいていた。

甲田はジャズの魅力をコウから教えてもらった。

コウはジャズに関しては、小学校4年のときにカウント・ベイシーを聴き没頭するほどほ早熟だった。「ヘンタイです」と甲田は言う。

よくコウの部屋に行き、レコードを聴いた。


ある日、甲田のもとにコウから「北品川にいいバイト見つけた」と連絡がきた。

詳しく聞くと、アパートの近くの輸入家電の会社の修理工場だった。

家電はオイルヒーターがメイン。他に加湿器や掃除機。修理といっても部品の交換だけで誰でも出来る。いいバイト先が見つかった。

修理工場で伸太郎とコウははたらいた。重労働ではなかった。

町の空気もゆるい。近くには屋形船の船溜りも旧東海道の残り香のような天婦羅屋もある。

気持ちに余裕も出てきて、バイトの連中もバンド・マンが多く、甲田はコウとバイト仲間のドラマーを誘い、甲田伸太郎バンドを結成した。


ーーーそれで、すぐに西麻布のピンクライオンという店でライブをやる話しをつけてきたんです。ドラムがどんな音を出すのかわからなかったけど、とりあえず、バーっとやってから、いろいろ考えればいいや、と。

そのときのライブのタイトルがブラッデスト・サキソフォンだったんです。

いろいろ言われました。元ジャックナイフと言えば、集客もできるのにと。でもプロフィールにもフライヤーにもいれない。

自分は新人バンドとしてゼロからはじめる。いましかゼロに戻るチャンスはない。意地もあった。

そのとき、バンド名をブラッデスト・サキソフォンにしたんです。

だから、結成は、北品川の工場なんです。

1998年、自分が28歳のときでした。


2016年3月5日、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ノースシナガワ』と題したライブをシュールズ・クラブで開催することになった。


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続く...

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