ピカレスク・アイ2
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チェルシーホテルでエリントンに魅せられた。
すでにストリートでサックスをブロウしていた。
しかし彼がメンバーになっていたバンドはシャズではない。
パンクとスカとロカビリーがミックスしたストリート系のバンドのジャックナイフ(以下JK)だった。
1990年代に東京のストリート・カルチャー・シーンで一世を風靡した伝説のバンドだった。
JKのことは記憶にある。
まず、スカーフェイス時代のJKのプロデューサーがMだったことにより、かつてキャロルのマネージメント、モッズのプロデューサーとして業界で名を馳せたキーマンが目をつけたバンドというだけで噂になっていた。
それは巧妙な話題づくりだったか、活動は、こんな感じだった。
以下、mod.kir.jpより引用。
【1990年、「土曜の夜8時、渋谷・西武百貨店前・路上」 これがJACK KNIFEのメインステージだった。西武のシャッターが閉まる頃、なにげなく集まるソレっぽいやつら。そして誰の合図でもなくはじまるロックンロール・ショー。スカのリズム、ロカビリー、パンク、ロックン・ロール、、俺の好きなリズムがそこにはあった】
時代は「渋谷系」が騒がれる数年前・・・
天安門事件、ベルリンの壁の終焉、ソ連の崩壊、湾岸戦争、、、世界は激震していた。
不吉の旋律を奏で 90年代の幕があく。
しかし一方ではCDの生産数が爆発的に飛躍した。
1991年には生産数の総計が3億万枚突破。金に換算すると、前年の3871億円を600億円上回る4000億円台に。
その後も、毎年3000万枚ずつ龍のごとく増えていく。
つまり、莫大な金が音楽界に流れ込んでいた。
青山学院やお坊ちゃんに象徴された渋谷系は、その業界のバブル期から生まれてきた。
音楽だけでなく渋谷がサブカル発信の地として台頭してきた。
しかし、JKは渋谷系が騒がれる前夜に渋谷で路上ライブをしている。
「リーダーの和気がもともと原宿のホコ天で路上ライブやってたんです。リアルを求めて。でもバンド・ブームが到来し、猫も杓子もバンドとホコ天になり和気は嫌気がさして、ホコ天を飛び出し、渋谷に流れた。もう渋谷には渋カジの連中がいて、はじめは路上ライブやってると奴らとのトラブルはありました。イラン人とももめた。でも、そのうち、あそこはジャックナイフの縄張りだから手出すなっていうことになってやりやすくはなった」
【いつしか「噂」のバンドになっていた。気がつくと、ジャックナイフ見たさに見物客がバス通りにまで立ちはじめ、渋谷警察がくるなんて日常茶飯事だった。何度か警告や事情聴取を受けるうちに、遂には渋谷警察前の地下道でゲリラ的路上ライブまでやってのけた】
甲田はそのときSHINTARO名でサックスプレイヤーだった。
彼はまだ、21歳!
いかようにも将来は想像で設計できる。
渋谷からニューヨークにバンド・メンバー5人と渡った。
ボロボロのジーンズにタンクトップに革ジャン、気分は路上のまま。
しかも宿泊は『シド&ナンシー』で知った伝説のチェルシー・ホテルとくる。
「よくおぽえているのは、フロント・カウンターの両サイドにエレベーターがあって、左のエレベーターには中の壁の上の方にナイフでシドと削ってあるんです。あと、有名な画家の奥さんがそこの住人で、年は80歳ぐらいのお婆さんです。旦那さんの絵がホテル内のあちこちに飾ってあって、それを売って暮らしているみたいで、いつもロビーにひとりでいた。ホテルのあたりはゲイと芸術家のエリアでした」
ホテルの部屋は10階建の10階のスィートルーム。
チェルシー・ホテルといったらアーティストにとっては憧れのホテルであり、シド&ナンシーの事件だけでなく、数々の伝説を残している。
創業1883年、マンハッタン区チェルシーに建つ。
ホテルといっても長期滞在する者も多く、特にアーティストに好まれた。
ミュージシャンだとボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ジャニス・ジョプリン、レナード・コーエン、パティ・スミス、イギー・ポップ、、、限りなし。
そして、シドがナンシーとやって来て、1978年10月12日、ヘロイン中毒で理性を失ったシドがナンシーを刺殺するロック史上最悪の事件がおきる。
甲田はチェルシー・ホテルの歴史を知っていたわけではない。
セックス・ピストルズのメンバーに関するひとつのエピソードの舞台として、チェルシー・ホテルのことは知っていただけだ。
スィートルームは大きなベッドルームが一部屋。そこは26歳最年長のリーダーが占有した。他は大きなリヴィングルームに仮説ベッドふたつ。ソファにふたり。
スィートルームをメンバー6人でシェアした。
「そのころ、バンドの待遇がよくて、事務所から毎月銀行振り込みで給料をもらってたし、ニューヨークではメンバーひとりあたり一日50ドルもらえて、それで、一ヶ月ですよ。ニューヨークの連中が行けないようなタイ・レストランとかで食事してた。メジャーと契約してから生活苦におちいったんです」
「一ヶ月も、何をしていたの?」
「それが、遊びです」
「そのとき、ジャズと出会うようなことが?」
「ありました。まずはニューヨークの街の色や光に惹かれていったんですね。街に蛍光灯の光はほとんどないし、スタンテン島にフェリーでいったとき船上からずっと摩天楼が見えていて、しみじみと、あのときは感動しました。あとチェルシーのベランダから見ていた23St.の光景も忘れ難い。ホテルの部屋ではカセット・デッキでずっとジャズを聴いてました。すでにCDの時代でしたけど、アナログ盤からカセットに落としてました。で、ある日、みんなでチェルシーのベランダに出て夕景を見ていたんですね、飲みながら。そのときデッキからブラサキでもよくやっているエリントンの『ムード・インディゴ』が流れてきて、すべてが一体化した瞬間を経験したんです。それをチェルシー・ホテルで、しかも21歳の若造で体験できたことが、その先の自分を決定づけたと思います」
それから甲田はサックスを持ってセントラルパークに行き、ジャズを吹いていた。
「それまで、音楽をやっていても何かぼんやりしていたんですけど、はじめて、強くジャズをやってみたい。エリントンみたいに、感じる側じゃなくて、自分もやってみたい。と思えるようになったんです」
ブームの中に身を置いているうちは、物事の核心に到達することはできない。
純も不純もいっしょくたになり、自分のうちから発するものも消えていく。
彼はブームから最も遠いところで、核心に触れてしまった。
誰もエリントンを讃える者などいない時代に、幾千、幾万の夜にエリントンが夢見た幻に触れてしまった。
摩天楼そのものがが『ムード・インディゴ』を奏でていた。
それが、遠い銀河系の果ての星屑となって甲田のハートで弾けたのだった。
ふたたび、みたび、彼はバンド・メンバーとしてニューヨークに渡った。
日本での人気もインディーズからメジャーへと契約が移行し、路上ライブをつづけながら野音での単独公演も成功していた。確実に人気は広がっていた。
しかし、バンドはニューヨークを目指していた。
インディーズのときはチェルシー・ホテルに泊まれる高待遇であったが、メジャー契約した途端、そんな余裕は吹き飛び、古い6階建てのビルの最上階の屋根裏部屋のようなところに楽器をつめこみ、そこにメンバー全員も雑魚寝生活となった。
「もう、死ぬような。必死でした。特に男ばかりの共同生活はまいります」
午前中は、リヴィングでリハをやり、午後にはエレベーターで機材を下におろし、トラックに全部つめこんでライブ・ハウスへと急ぐ。
ニューヨークの名門のCBGBのステージにも立った。
路上ライブも敢行した。
「まぁ、過酷だったけど、週10本くらいライブやりました」
街を歩けば「ジャックナイフ!」とニューヨーカーから声をかけられるぐらいのローカル・ヒーローにはなっていた。
今回は、渡米にハッキリと目標があった。
すでに日本で発売していたアルバムから選曲し、海外向けのベスト盤を制作した。
それはニューヨークのプロダクションの協力を得て、リリースされた。
発売元はタワーレコードNY店。まずは地区限定。
発売日にタワーレコードでイン・ストア・ライブが決定したが、その日の旅客機でバンドは帰国する予定であった。チケットの変更はできない。しかしライブをやりたい。策を練った。
仮病!その日、朝、航空会社に連絡した。
前日に食べた料理にメンバー全員が食当たりし、病院に入院したので飛行機の変更を依頼。嘘が通った。
駆けつけてみると、2階まである広いフロアーを埋めつくす客の大歓声で迎えられ、渋谷の路上以上の反響があった。
結果、その週のベストセラーの第3位にランクイン!
まずまずの成果だったが、、
「日本での人気が急上昇しているときにニューヨークに行ったんですよ。95年の6月に日比谷野音で単独公演やって、満杯にした。レコード会社としては、これから日本で売り出していくタイミングというときに、ニューヨークへ?なんで? と思ったはずです。ぼくらとしてはニューヨークで成功をおさめ、日本での人気に勢いをつけようと思った。ところが、帰国してわかったのは、行くまでは単独公演やったらパンパンだったのが、帰国後はガラガラになった」
「なんで?」
「やっぱり、ジャックナイフは路上で見れる身近な存在だったのが、遠い存在になってしまったと思われたんですかね。野音でやったときも宣伝のために、ホーンセクションだけで路上ライブはやりつづけていたんです。そのうちジャックナイフは知らないけど、ホーンセクションは知っているというファンも増えてきたんです。
でも、ジャックナイフはすでに危機を感じてはいましたね」
「何年頃?」
「95年ですね」
「翌年が神戸の震災やオウムのサリン事件ですね。かなりハードな時代ですね」
「ツアーやっても水不足で大変なときでした。でも、いまブラサキもそうですが、ぼくは社会の批判も政治批判もしない。不満があってもライブに来たら、すべて忘れて楽しもうよというのが一番ですね。だから『タイタニック』で、船が沈むときも最後まで楽団が演奏してますよね。あれですよ、究極の娯楽、いいですよね」
と甲田は言うのだった。【つづく】